鳥にしあらねば 85

 

『殺したんじゃねえもの 346』(2016年6月発行)より

  人間は(ということはつまり私を筆頭として、だが)弱く愚かで間違いを犯しやすい。そんなことを言っちゃ身もフタもない、明るい未来が望めないと叱られそうだが、そんなことはない。愚かで間違いを犯しやすいからこそ、私たちは無い知恵を絞り額に汗して共生のための社会を模索してきた。そのために法や制度を作り上げ、日夜それらに手を加え、過ちをできるだけ抑え込もうと努めてきた。という意味では、私たちは不出来で矛盾にまみれた存在だからこそ変わることができ、未来への希望を紡ぐことができるのだ。

 私が死刑制度を廃止すべきだと考える理由の一端もそこにある。ここで、人間は間違いを犯しやすいと言うのは2つのことを意味している。1つは、善良な市民と犯罪者との距離は私たちが思っているほど大きくないということだ。どこにでもいる物静かな小市民が、一定の環境に投げ込まれるといとも簡単に殺人に手を染める。「イエルサレムのアイヒマン」やオウム真理教の幹部たちにしてもそうだった。そこまで極端な例を引かなくても、欲望が膨らみ、愛が憎しみに転化して犯罪に走る事件はこの社会で後を絶たない。もちろん憎むべき犯罪は根絶したいと思うし、被害者や遺族の苦しみはいくら強調してもし過ぎることはない。しかし、社会の構成員全てが完全に自由を奪われない限り、一定の犯罪の発生は社会の中に織り込まざるを得ない。それは誰もが認めることだろう。だから誤解を恐れつつ言うのだが、犯罪者を排除(殺害)するのではなく、社会の一部として包摂し、その更生の道を探ることによって社会の足腰をより強くする必要があるのではないかと私は思う。

 もう1つは、そのような犯罪者(と見なされた者)を裁く段階でも私たちは過ちを犯しやすいということを意味している。だからこの国では裁判を公開し、三審制を採用し、再審制度を用意している。過ちをできるだけなくす努力を重ねる一方で、それでも過ちを完全にゼロにすることができないことを知っているからこそ、私たちはそのような救済システムを構築したのだ。その救済システムと、生命を奪うことで救済の道を永遠に閉ざしてしまう刑罰は両立し得ないのではないかと私は思うのだ。

 死刑制度についてはこの連載でも何度か書いたが、改めて以上の思いを強くしたのは、前回の私の文章について読者からある反応があったからだ。その記事で私は、和歌山カレー事件の林眞須美さんが外部交通権の保障を求めて本人訴訟を繰り返していること、死刑確定者の外部交通権は「心情の安定」という5文字によってとりわけ不当な制限を受けていることを、私が彼女に送った手紙が切り刻まれたという事実を通して読者に考えてもらおうとした。ついでに記事の訂正と補足をさせていただくと、林さんは「家族と弁護人以外、誰一人面会や文通を認められていない」と書いたが、彼女の同級生が一人だけ文通を許されているらしい。それから、「心情の安定」を死刑確定者の権利を制限する根拠としてはならないということは、2006年制定の刑事施設法の附帯決議で明言されている。それが死文化しているということだ。

 話を戻そう。私の記事を読んだある人は、恐らくそんな事実があることなどまったく知らない職場の若い人たちに記事を見せたという。またある人は林さんを支援する「あおぞらの会」の通信に記事を転載した。そしてある人は、「あなたは林死刑囚に利用されているだけではないか」と直接“忠告”してくれた。その人とは1時間以上、刑事施設での処遇の実態や死刑制度、カレー事件の証拠などについて話をした。今回の文章はその人への「追伸」でもあるのだが、さて、ちゃんと伝わったかどうか。