鳥にしあらねば 86

 

『殺したんじゃねえもの 347』(2016年7月発行)より

 「おーい、おーい」。いくら呼んでも、隣で大きなイビキをかいている男は起きない。「おーい、起きてくれ〜!」。最後の力を振り絞って叫ぶと、男はやっともぞもぞと体を動かした。そして目をこすりながら言った。「勘弁してよ。昼間工場で働いて疲れてるんだ」。そう言って男はすぐに再び眠りに落ちた。彼はぐっと言葉を飲み込んだ。そしてまんじりともせずに夜が明けるのを待った。

 これは40年ほど前に森修さんから直接聞いた話だ。彼は朝が来て男が目覚めると、こう言ったという。「おまえは夜、何度寝返りを打ったか知ってるか。オレは数えた。24回だ。それなのにオレは1度も寝返りを打てなかった。どうしておまえの20分の1もオレには許されないんだ?」。男は口ごもった。答える言葉が見つからなかった。

 森さんは座位を取ることができない最重度の脳性マヒ者である。服を着るのもごはんを食べるのも、トイレや風呂に入るのも一人ではできない。寝返りもできない。しかし1時間に1度、寝返りを打たないと体がきつい。そこで昼間働いて夜の介護に無償で入る若者と衝突する。当然のことだ。

 もちろんこの衝突は本質的な衝突ではない。いかに屈強な若者でも24時間働き続けることなど不可能だ。公的な介護保障制度が当時存在しなかったことにこそ問題の核心がある。しかし「安易な問題解決の道を選ばない」「健全者文明を否定する」日本脳性マヒ者協会大阪青い芝の会会長の森さんにとって、こうした衝突は重要だ。介護というのは、障害者と健常者の価値観がぶつかる恰好の修行の場なのだった。

 森さんは「就学免除」で1日も学校に行っていない。しかし相手の心理に踏み込む巧みさにおいて、他の障害者の追随を許さなかった。テレビの大相撲中継で覚えたという漢字をふんだんに使って親友と文通を重ね、ラブレターを書いた。公教育の場から完全に排除されて、なぜこれほどの社会性を獲得し得たのか。それは彼をめぐるナゾの1つだ。そして若者たちはそのことに魅了された。かく言う私もその一人だった。

 学生時代の一時期、今は広島で暮らすMと2人、ほとんど毎日森さんの家に通った。彼の家の狭い風呂場で男3人が格闘した。背もたれを倒し、足乗せを前に伸ばして前後にやたらと長い車イスを押して、障害者がまったくいない街に出た。バスの運転手や喫茶店主ともめた。外出の目的は青い芝の会の会議や在宅障害者訪問だったが、それよりも、世に蔓延する「排除の視線」を体験すること自体が重要だったように思う。

 不思議で面白い体験だった。自分は健常者なのに、彼の車イスの後ろに回るとそこから「健全者文明」が垣間見えた。ソイツは驚いたり焦ったり避けたり、知らんふりをしようとした。それまで資本家と労働者で世の中ができていると思っていた学生に、そうじゃない世界が圧倒的な迫力で迫ってきた。自分の身体と生活をさらすことで、複眼的な視点の大切さを私に最初に教えてくれたのが森さんだった。

 その彼が67才で逝った。昔、身体機能を維持するためにと医師に勧められたゴムボールを、棺の中でも左手にしっかりと握っていた。土に還ってなお「健全者文明」と闘う気でいるようだが、いい加減ゆっくり休んで好きな将棋でも指していたらどうか。