鳥にしあらねば 87

 

『殺したんじゃねえもの 348』(2016年8月発行)より

  衝撃は大きかった。いや、未だに大きいままだ。7月26日未明に発生した相模原事件をどのように語っても、その語りには必ず影がまとわりついていて、語りの量に比例して影も拡がっていくような感覚にとらわれる。当然、怒りはある。しかしその怒りは犯人に向かうのと同じ程度に、私を含めた膨大な数の“善良”な市民が築いたこの社会に向かってしまう。そこに恐らく影(語りがたいもの)の正体がある。収容施設で暮らす19人の知的障害者が殺され26人が負傷した戦後最悪の事件は、只今現在の日本社会が一人の若者の手を借りて、その本能をむき出しにした姿そのものではないのか。

 もちろん問題を普遍化し過ぎて、責任の所在をあいまいにしてはいけない。容疑者Uが真犯人ならば(という仮定でこの後も書くのだが)、彼は一線を踏み越えた凶悪犯であり、厳しく断罪されなければならない。心の中で思うこととそれを実行に移すこと(殺したいほど憎むのと殺すこと)の間には大きな隔たりがあるのであって、ましてや大量殺人にまで至った今回のケースはやはり余りに特殊だと言わざるを得ない。しかしあらゆる犯罪に社会的背景があるという一般的な事実以上に、今回の事件は政治的・倫理的な確信に支えられているという意味で社会的な犯罪だ。だからこそ、その確信を形成したものに注意を向ける必要がある。

 事件の半年近く前、その施設の職員だったUは衆議院議長に3枚の手書きの文書を渡そうとした。1枚目では「障害者は人間としてではなく、動物として生活を過しております」、「障害者は不幸を作ることしかできません」と断定し、「私の目標は重複障害者の方が…保護者の同意を得て安楽死できる世界です」と自論を展開する。2枚目は「私は…全人類が心の隅に隠した想いを声に出し、実行する決意を持って行動しました」で始まり、「今回の革命で日本国が生まれ変わればと考えております」で結ばれる。そして3枚目の「作戦内容」では、職員の少ない夜勤時に決行する、職員は絶対に傷つけない、重複障害者が在籍する2つの園(実際は1つだけだったが)の260名を抹殺するといった具体的な犯行内容が予告されている。

 ここまでは報道でご存知の方も多いだろう。私がもっとも気になったのはその後の記述だ。Uはこう書いている。
 「作戦を実行するに私からはいくつかのご要望がございます。逮捕後の監禁は最長で2年までとし、その後は自由な人生を送らせて下さい。心神喪失による無罪。新しい名前(××××)、本籍、運転免許証等の生活に必要な書類、美容整形による一般社会への擬態。金銭的支援5億円。これらを確約して頂ければと考えております。ご決断頂ければ、いつでも作戦を実行致します」。

 私が見逃しているだけかも知れないが、この部分はあまり報道されなかったようだ。しかし、「どうか愛する日本国、全人類の為にお力添え頂けないでしょうか」、「安倍晋三様にご相談頂けることを切に願っております」と書いたUの訴えの核心はここにあると思う。国家に成り代わってその意思を実行に移すのだから、国家はそれなりの代価を払えということだ。

 今回の事件については多くの語りが語られ続けている。一方では例によって社会防衛的な視点から措置入院制度の見直しが誤って語られ、また一方では障害者を地域から排除し巨大施設に収容する施策への批判や、事件の被害者が匿名のまま具体性をそがれていることへの異議が正しく語られる。それらはすべて深く議論される必要がある。さらに私たちは、Uが新しい名前と顔と5億円を国家に求めたことの意味を自問しないといけないと思うのだが、どうか。