鳥にしあらねば 91

 

『殺したんじゃねえもの 352』(2016年12月発行)より

 先月の関西市民の会の月例会で相模原事件をテーマに日本自立生活センターの渡邊琢さんと対談した後、例によって近くの飲み屋で交流会を持ち、自宅に帰った時は夜の11時をとっくに回っていた。そっと玄関のドアを開け勉強部屋の電気をつけてパソコンの電源を入れる。帰宅がどんなに遅くなってもメールをチェックするのは、私の悲しい習性である。

 そして驚いた。その日、11月24日の午後9時36分発信の「雑誌を送ってください」メールを皮切りに、注文メールが画面を上から下へ次々に流れて止まることがない。30数件まで数えたところで数えるのは諦めた。注文だけではない。自分の障害者人生を語って「もっと早くこの雑誌と出会いたかった」と嘆く人もあれば、「編集部に参加したい」という精神障害の若者からのメールもある。若くして亡くなった障害者の弟を持つ男性は「生きるって何なのでしょう?」という重い問いを発していた。とてもではないが、こんな夜中に対応できる内容ではない。翌日に持ち越すことにして布団の中に潜り込んだものの、なかなか寝つけない一夜を過ごすこととなった。

 その日夜9時からのテレビの全国ニュースの中で私が編集を務める『そよ風のように街に出よう』の終刊が報じられることは、担当した社会部のM記者からあらかじめ連絡を受けていた。彼女は東京から何度もこちらに足を運んで念入りに取材してくれた。ただ、それを10分弱に編集して放映すると聞いていたので、視聴者の反響よりもちゃんと言いたいことを伝えてくれるかどうかということの方が気にかかっていた。だから放送直後、彼女から「見てくれました?」という電話がかかった時も、周りの騒音に片方の耳をふさぎながら「まだみんなと飲んでいるんですよ。録画してますから帰って見ます」と呑気(のんき)に答えたものだ。放送が、その後1週間近くにわたるメールや電話や来訪者との悪戦苦闘を私にもたらすことなど想像すらしなかったのだ。

 Mさんが作った番組は、時間的な制約のある中で、『そよ風』という手弁当路線の雑誌が長年こつこつと「共生」を訴えてきたこと、障害者の現在は過去の闘いがかち取ったものであること、終刊を決めてから相模原事件が起きたが、これからも「共生」への取り組みは粘り強く続くことなどを、うまくまとめてくれていた(この番組はYou Tubeを開いて「そよ風のように街に出よう」で検索してもらえば、まだ―12月13日現在は―見ることができる)。

 それにしても、メール第1信が発信された9時36分というのは、9時30分に始まった『そよ風』報道がまだ終わっていない時間である。その人はニュースを横目で見ながらスマホかパソコンで『そよ風』を検索し、メールアドレスを見つけてすぐにキーを叩いたに違いない。その後の数分に続く何人もの人たちも同様だったろう。自身や身内に障害があったり、長年障害者問題に関わってきたにも拘(かかわ)らず『そよ風』の存在を知らなかったことに彼らは驚いていた。さらにその後に続く人のほとんどが『そよ風』の存在を知らなかった。マイナーであることを自覚していたとは言え、その事実が私には堪(こた)えた。障害者問題に強い関心を寄せ、相模原事件に心を痛めた人たちにすら『そよ風』は知られていなかった。

 1979年の『そよ風』創刊には2つの目的があった。地域で共に生きるための情報を障害者や家族、その周りの人たちに届けることと、障害者の生の声や生活をそれまで関心のなかった普通の市民に届けること。2つ目は無理だったとしても、1つ目の目的は37年という時間を費やしてある程度達することができたのではないかと自負していたのだが、いやはや、どうか。