鳥にしあらねば 94

 

『殺したんじゃねえもの 355』(2017年3月発行)より

 率直に申し上げれば虫酸が走る。「口中に虫酸が出て吐気をもよおす。転じて、ひどく忌み嫌うたとえにいう」(広辞苑)。草むらでいきなりアオダイショウと出くわしたような気分である。以前と違って、私がどうしてある種の政治家や評論家からそんな感覚を受けるのかについては理屈を語ることができるが、それでも理屈より先に嫌悪感が襲って来るのは今も以前と変わらない。そういう時の背筋が寒くなる感覚を、私がとれた島根の出雲地方では「ぞんぞがつく」と言う。なかなか言い得て妙なオノマトペである。

  「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」のお歴々が敗戦の日に神社の廊下をゾロゾロと歩く姿を見た時などは、条件反射的にぞんぞがつく。先頭を歩く尾辻氏とか高市氏の顔には晴れがましさすら漂っていて、こういう人たちは世界が自分たちをどう見ているかについて、なぜかくも鈍感でいられるのかと不思議でならない。それは私が所詮、国政を左右する政治家になどなれない市井の凡人である証かも知れないが、だとすれば凡人であることをつくづくありがたいと思う。

 ついつい感情が高ぶって前振りが長くなった。国有地の格安払い下げ問題に端を発した森友学園にまつわる話をしたかったのだ。と言っても、今やマスメディアの格好の餌食となっている籠池泰典理事長やその家族の話ではない。彼らの言動はあまりに稚拙だし、小学校の認可申請の過程はウソと小細工に塗り固められている。人前でしゃべりたがるキャラクターも含めて、世間がうっぷん晴らしに石を投げつける相手としては確かに申し分ない。しかし気をつけないといけない。犯罪報道で繰り返されている事実、メディアはこういう場合叩きやすい者しか叩かないという歴史的事実が再び繰り返されている。

 渦中の籠池氏が「日本会議」という民間団体の大阪支部運営委員であることを、この間の報道で知った方も多いだろう。「日本会議」は「日本を守る会」、「日本を守る国民会議」などが合流して1997年に設立された。今回の事件に登場する安倍首相や稲田防衛相、“こんにゃく”を籠池氏に投げ返した鴻池議員らはみなこの「日本会議」と国家神道の復活を目指す「神道政治連盟」の両方の国会議員懇談会に属している。ついでに言えば、安倍内閣の麻生副首相、菅官房長官、高市総務相、岸田外相、丸川五輪担当相などほとんどの閣僚がこの両方の組織の懇談会に名を連ねている。

  「日本会議」のウェブサイト「日本会議が目指すもの」には次のようにある。

  「125代という悠久の歴史を重ねられる連綿とした皇室のご存在は、世界に類例をみないわが国の誇るべき宝というべきでしょう。私たち日本人は、皇室を中心に同じ民族としての一体感をいだき国づくりにいそしんできました」。「私たちは、皇室を中心に、同じ歴史、文化、伝統を共有しているという歴史認識こそが、『同じ日本人だ』という同胞感を育み、社会の安定を導き、ひいては国の力を大きくする原動力になると信じています」。

 ここには先の戦争に対する反省も現憲法に対する敬意も、そのカケラすらない。まさに「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ…」と始まる教育勅語そのものだ。籠池氏はそれを幼稚園児に暗唱させて悦に入った。愚かである。しかしその思想において、彼は安倍政権の中枢を担う利口な人たちと寸分違わない。今報道人に必要なのは、森友学園事件の背後に流れる戦前回帰のもくろみが政治だけでなく教育をも浸食し、日々その勢いを増しているという不気味な状況への切り込みだ。ヘビを見てぞんぞがついても逃げればすむ。しかしここで逃げたら将来に大きな禍根を残すことになると思うのだが、どうか。