鳥にしあらねば 95

 

『殺したんじゃねえもの 356』(2017年4月発行)より

  国家主義は国家を一つの身体と考えて、その生命と健康を第一とする。個人である国民は、国家という身体のいわば一つひとつの細胞である。部分(民)は全体(お国)のためにあり、従って全体のために犠牲になるのは当たり前であり喜ばしいことですらある。そうして先の大戦では帝国日本に侵略されたアジアや太平洋地域で2千万人以上が、日本人も3百万人以上が犠牲となった。最後には昭和天皇も天皇制も生死の瀬戸際に立たされたのだから、二度とこんな愚かな戦争を行ってはならないというのは、左翼はもとより天皇を崇める右翼にも共通の認識だった(はずだ)。

 その深刻な(はずだった)反省が、国家主義を廃し民主主義を根付かせようとする敗戦後の日本の歩みの根幹にあった(はずだ)。それがここに来て、次々と反故にされている。安倍内閣に限っても、教育基本法改定(06年12月)、特定秘密保護法成立(13年12月)、防衛装備移転三原則の閣議決定(14年4月)、集団的自衛権容認の閣議決定(14年7月)、安保法制成立(14年9月)、刑事訴訟法改定(盗聴の範囲拡大、16年5月)…。直近では今年の3月31日、「憲法や教育基本法に反しない形で教育勅語を教材として用いるのは否定されない」という、まさに形容矛盾としか言いようのない答弁書が閣議決定された。「憲法に反しない教育勅語」というのは、「丸い三角」や「赤い白猫」と言うに等しい。

 そして4月14日に衆議院で審議入りした組織的犯罪処罰法などの改定案、いわゆる共謀罪法案である。過去3度廃案になったのに懲りた政府は「テロ等準備罪」と呼称を変え、「これがないと20年オリンピック・パラリンピックが開けない」とか「国際組織犯罪防止条約を批准できない」といった発言を繰り返している。それらの発言が根拠のない恫喝であって、既に日本は国際的な犯罪を防止する法律や手段を手にしていることは大方の知るところなのでここでは触れない。

 この法案のキモは、犯罪の実行行為よりはるか前の計画(謀議)段階で処罰できるというところにある。政府は「計画に加えて準備行為があって初めて処罰の対象とするから過去の共謀罪とは違う」と言うのだが、これも噴飯ものだ。例えば殺人を共謀した者の一人が、凶器を入手するためにATMでお金をおろす。それが準備行為だと説明される。しかしよく考えてみれば(みなくても)、それが犯罪の準備行為かどうかは、その前に謀議があるかどうかで判断せざるを得ない。逆に言えば、謀議さえあれば、たいていの行為は準備行為にすることができる。電車に乗ってもコンビニに入っても友人と会っても、だ。結局は共謀だけで処罰される。今回の法案の本質は過去の共謀罪法案と少しも変わらないのだ。

 それにしても、いったいいつから今のような民主主義蔑視が始まったのだろう。政治学者の白井聡氏は、福島第一原発事故後の政・官・財・学・メディアにまたがる総無責任体制を批判しながらこう述べている。「大言壮語、『不都合な真実』の隠蔽、根拠なき楽観、自己保身、阿諛追従(あゆついしょう)、批判的合理精神の欠如、権威と『空気』への盲従、そして何よりも、他者に対して平然と究極の犠牲を強要しておきながらその落とし前をつけない、いや、正確には、落とし前をつけなければならないという感覚がそもそも不在である、というメンタリティー……。これらはいまから約七〇年前、三〇〇万にのぼる国民の生命を奪った。しかもそれは、権力を持つ者たち個人の資質に帰せられる問題ではなかった」(『永続敗戦論』太田出版)。

 相似のメンタリティーが敗戦後一貫して政・官・財・学・メディアを覆い、私たちもその無責任体制にどっぷり漬かってきたのだとしたら、いつから民主主義蔑視が始まったのかというのはとても愚かな問いかも知れないと思うのだが、どうか。