鳥にしあらねば 97

 

『殺したんじゃねえもの 358』(2017年6月発行)より

 

 1979年に創刊した障害者問題誌『そよ風のように街に出よう』は7月の91号がいよいよ最終号となる。終刊を決めた後、編集長の河野秀忠が倒れ(1年経った今も入院中)、その1か月後に相模原で障害者大量殺害事件が起きるということで、昨年は編集部にとっては大変な1年だった。少し落ち着いた今、創刊以来の38年を改めて振り返ってみて、季刊でスタートしたものが年3回となり2回となって今日まで、よくぞ持ちこたえたものだと思う。もちろんそれは心が熱く寛容な読者、同じ志の執筆者、そして愛すべき編集部の仲間に支えられたおかげである。

 そういう人たちへの感謝の気持ちもあって、最終号で私は久しぶりに取材記事を書くことにした。相模原事件に関して自分なりのメッセージを発しないまま、読者に「サヨナラ」と手を振るわけにはいかないという個人的な思いもあった。5月中旬、横浜と相模原に1泊2日の旅をした。事件から10か月が過ぎて世間はすっかり関心を失ったかに見えるが、中には事件のことを考え続けている人がいる。そういう人たちに会って話を聞きたかった。そして事件の現場となった「津久井やまゆり園」の最後の姿も見ておきたかった。

 最初に会ったのは、横浜で知的障害者たちと「カフェベーカリーぷかぷか」を営むTAさん。めったに会うことはないが、彼が養護学校の教員をしていた30年ほど前からの付き合いである。「障がい者 豊かな日々知って」という彼の投稿が朝日新聞に載ったのは、事件から1週間ほど後のことだ。「障害者もこんな素敵な毎日を送っている」という彼のメッセージは、「障害者は生きる価値がない」という植松被告への異議申し立てでもあった。「ぷかぷか」の日常を覗くついでに、必ずしも「素敵」じゃない障害者のことについても彼と話をしてみたかった。

 次に会ったのが「やまゆり園」の元職員で、犠牲者遺族を訪ねる活動を続けるNIさん。ルカーチに関する著書もあって専修大学で講師をしている。この間テレビや新聞、雑誌などで事件について発言を重ねていたので、実際に施設で働いた立場から、どのようにして植松被告の思想や価値観が形成されたのか、彼の意見を聞いてみたかった。巨大収容施設と優生思想との相互作用のようなものが見えてこないかという期待もあった。

 最後に会ったのが地元の神奈川新聞の記者、NAさん。彼は事件の背景や事件が社会に与えた影響について、丹念な取材を重ねていた。「時代の正体―障害者殺傷事件考」という連載では、自身がうつ病で吃音になった経験も吐露しながら、施設という特殊な空間がもたらす影響やインクルーシブ教育の重要性を書いていて、まだ若いが会う前から私は好感を持っていた。

 彼と別れた後、一人やまゆり園に向かった。JR中央線の高尾で甲府行きに乗り換え、次が最寄りの相模湖駅なのだが、その一駅の間に世界を隔てるかのようにいくつものトンネルがあった。駅からバスに乗って「県立やまゆり園前」で降り、30度を越す炎天下、近所の住民の目を気にしながら人気(ひとけ)のない園の周りをウロついた。固く閉じられた鉄の門扉には「4月21日に利用者全員が仮居住先に移転した」、「引き続きやまゆり園の再生のために努める」などと書かれた神奈川県保健福祉局の紙が貼られていた。

 障害者団体から施設建て替えへの反対論が噴出したことに対して、黒岩県知事は「非常に心外だ」と語って、それがまた批判を巻き起こした。現在、県の障害者施策審議会で今後について検討が進められている。園の家族会は施設の再建を強く望んでいるのだが、さて、その願望と拮抗できる障害者や市民の運動は可能なのかどうか。