鳥にしあらねば 99

 

『殺したんじゃねえもの 360』(2017年8月発行)より

 8月は戦争の月だ。6日のヒロシマ、9日のナガサキ、15日の玉音放送と、あまりに愚かだった為政者たちとその犠牲者たちに思いを致す時間が繰り返し訪れる。第二次大戦における軍人の死者は世界で2千数百万人、対して民間人の死者は4千万人から5千万人と言われる。気の遠くなるような数だ。戦争の悲惨は、人間の命が紙くず同様に扱われるところにある。そこでは天皇や国家や民族のために、正義や自由のために、個々の人間の命はいとも簡単に捧げられる。かけがえがないはずだった命は、腐臭を放つ肉塊となり黒焦げの丸太になり肉片になり骨と皮になって路傍に見捨てられ、すぐに他の命と掛け替えられる。戦争において人間の命は、弾丸と同じように消費される。

 72年前を振り返る作業は、そのことに対する(あらが)いである。カントの定言命法の中に「すべての理性的存在者は、自分や他人を単に手段として扱ってはならず、 つねに同時に目的自体として扱わねばならない」というのがあるが、戦争を繰り返してはならないという私たちの思いは当然、命を他の何かのための手段としてはならないという思いと重なる。中東をはじめ世界の各地で市民の命が奪われ続け、極東の一角で再び愚かな為政者たちが地球を壊しかねない火遊びに興じようとする今、72年前に思いを致すことの意味は大きい。

 その72年前の10月、まだ戦争による破壊の爪痕が残るパリで、哲学者ジャン=ポール・サルトルが「実存主義はヒューマニズムである」と題する講演を行った。サルトルを知る人は今ではごく少ないかも知れないが、彼は世界を代表する知性として戦後長らく若者たち(私も70年代はその一人だった!)の崇敬の対象だった。私はその講演の内容を『実存主義とは何か』(人文書院)で知ったのだが、人間の命が紙くずのように扱われた大戦の直後、絶望感が社会を覆う中で彼は人間の尊厳や命の根源性に真正面から向き合おうとした。

 その講演でサルトルは「実存は本質に先立つ」という有名な言葉を示した。「実存」は人間存在を、「本質」は「その物がその物であるためには欠かすことができない条件」(「哲学用語図鑑」プレジデント社)を意味する。例えば椅子。椅子はそれに腰かけたり踏み台にしたりするために存在する。つまり椅子はある目的のために、人間の頭の中にあるイメージに沿って作成されるのだから「本質」としてしか存在しない。対して人間は「まず先に実存し、世界内で出会われ、世界内に不意に姿をあらわし、そのあとで定義されるものだ」、「人間はみずからがつくったところのものになるのである」(『実存主義とは何か』)。

 少しややこしくなったかも知れない。サルトルの妻シモーヌ・ボーヴォワールはこの彼の言葉を「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」というフェミニズムの言葉に言い換えた。不遜を承知の上で彼女にならって、「人間の命は何かのために存在するのではない、実存すること自体が尊重されるのだ」と私は言い換えたい。

 大脳皮質を大きく発達させた私たちは、つい「自分に生きる価値があるのか」と問おうとする。思春期は特にそうだ。真摯(しんし)に生きようとすればするほど、その問いは自分を苦しめる。しかし注意しないといけない。生きることに、生きること以上の価値が必要なのか。念のために言うが、人生の目標を設定することと生きる価値を問うことは違う。生きる価値を問うことは「本質」を「実存」に先立たせることだ。相模原事件から1年が過ぎ、「生きるに値しない、不幸しか生まない存在」として命を奪われた障害者のことを戦争の月に重ねて、そんな思いを強くするのだが、どうか。