ふたつの地平線
制作の想い
障害者問題資料センターりぼん社 映画制作委員会
(「リボン社通信・自由へbR」1977年より)
すでに御存知のように、映画はすぐれた意志媒体として私達の生活の中に深く根を下ろしています。私達が映画作りを始めてすでに4作目の作品になるこの『ふたつの地平線』ですが、いつもの事ながら、創り始める時には、スタッフ一人ひとりの想いをのせてどんどん広がり、とてもういういしい気持ちになったものです。特に、今までは、障害者解放運動に関わるものばがりでひとりよがりのスタッフ集団であったものが、今回は、私達の親しい友人である詩人の芝充世さんに加わっていただく事で、より改まった気持ちで映画作りに取り組むことができたと思います。
私達の創る映画は、原則として8mmを採用しています。それは、16mmにない細かな感情が見る人々に伝わる事と、どんな小さな集まりにも活用され得るという特性を備えている事によります。私達にしても、もっと映画的な手法を駆使できる16mm映画に魅力がないわけではありません。しかしながら、私達がその手法を手に入れる時、ただの映画屋としてではなく、障害者の自立と解放の運動の高揚がそれを獲得するという条件がなければなりません。そういった意味では、私達をはじめとする多くの友人諸君が切り開いた運動的地平が、この「二つの地平線」の次回作にておいてより多くの映画的手法を人間の文化的所産としての技術として獲得する事を強く望んでいます。
私達は最初、なけなしの知恵をはたきながら、ストーリーを考え出そうとしました。つまり、社会的状況があり、運動的力量があり、ことばとしての秩序(ストーリー)があり、映像の組み立てがある、というごく平凡な発想を私達自身の映面作りに課しました。しかしながら、この努力は、次から次へとくつがえされ、障害者解放運動の過激たらざるを得ない動きをストーリーが追いかけていく結果に終始しました。
私達は、映画作りにはごく経験主義的な素人集団にしかすぎません。映画作りに関しては、多くの諸先達が残された業績を、私達のあまりの幼稚さ故にふみにじる結果になるかもわかりません。しかし、私達の関わる世界、私達のふりまわす手足によってしか形成され得ないごうまんと、想い込みは、そんな事にかまっていられない程切迫しているのです。多くの映画屋さん、ごめんなさい。まあ、誰が映画を作っても、映画みたいなものを作ってもいいじゃありませんか。ごめんなさい。
私達はごの映画を、約一年間かかって作りました。最後は、全障連第2回全国交流大会に間にあわせなくっちゃと、やけくそで馬力をかけました。多くのロケーションでは、スタッフの多くが病に倒れたり、過労のためににっちもさっちもいかなくなる事もありました。今思い返すとよくぞやったりやられたりという感がしないでもありません。
話はコロッと変わりますが、1977年暮れ、関西青い芝の会連合会は甲山事件に発する障害児殺しに関して、甲山学園理事長の差別発言「障害者は廃人であり、社会的存在価値がない以上親が請求している死んだ子供達の賠償請求は無意味である」に対して、この映画の和歌山センター斗争と同じ視点の下、40名の障害者自身の糾弾、座り込みを敢行しました。甲山学園や施設の存続を至上命題とする権力は、和歌山センター斗争以降2年の間にたくわえた反撃と暴力装置を発動させました。それは、関西青い芝の会連合会に対する強制捜査(家宅捜索)、糾弾斗争に対する起訴として実現されようとしています。
私達は、この不当な、あまりに不条理な権力の行動の中で、昭和54年度養護学校義務化阻止という命題を自らに課した映画『ふたつの地平線』の制作過程の思い出を皆さんに語りかけたいという想念にかられます。障害者自身による障害者差別糾弾の行為は、歴史の発展に欠かせないものであると私達は確信します。それを実証し得るのは、真摯に生きようとする人間の営みに他なりません。映画を創った者として、多くの皆さんが、その事実と否定のしようがない歴史的現実に、自らの意識を外化される努力を払われるよう強く強く、そして強く要請したいのです。この映画が、私達が当初に望んだ本当の意味でのプロパガンダ映画になったかどうか、この映画を見られた皆さんに委ねる以外ありません。
思い出(そのl)冒頭に出てくる藤田さんの自殺。彼は自殺現場近くの無人の家で、死ぬ前の三日間寝起きし、食事のために、近所の(3キロは離れている)パン屋さんに、パンを買いに行っている。脳性マヒの彼が、松葉づえをついて少なからず人通りのある国道を行きつもどりつしているのに誰も声をがけなかったし、不審にも思わなかった事に私達は言葉の出ない程の想いにつき当りました。
思い出(その2)車イスのままバスに乗りたいという普通の願いをふみにじられた時、川崎バス斗争の必然性は既に用意されていました。のたうちまわりながら「バスに乗せろ!」と叫ぶ障害者のニギニギした姿に対して、どこでどういうふうに動員されたか知らないけれど、いわゆるバスに乗る市民的権利(青い芝の奮闘によって川崎駅前で78台のバスが運行中止になった)を奪われた労働組合の幹部と称する通行人が、障害者を指し、「これを片づけろ」と私達に迫った時の、私達の労働組合運動に対する暗たんたる気持ちを誰が推し測ってくれるのでしょうか。くそ!
思い出(その3)文部省に昭和54年度養護学校義務化に関する直談判をゾロゾロと行う青い芝の会の旗と、文部省の屋上にへんぽんとひるがえる日の丸の旗とのコントラストに、私達が胸をきりきりとかきむしるような喜びを感じたのは何故でしょうか。
とにもかくにも、映画が一本できました。運動の只中から生まれ、その運動をとりまく状況と運動それ自身が持つ未熟さと不燃焼性を証言するフィルムになったかも知れません。しかしながら時代の流れは速い。映画を創り始めた時から創り終わった時、すでに運動の実態はスタコラサッサと私達をおいてきぼりにしています。皆さん、映画を見た皆さん、誰でもいい、どんな社会的階層に属している人でもいい、とにかく映画を見た皆さん、無理な注文かも知れませんが、この機会に友だちになろう。とり残したもの、積み残したもの、あふれる程のことばで、文句を言いたい事を次に取り上げる事ができるかも知れません。
ローザ・ルクセンブルグも言っているではありませんか。ご立派な全く誤りを犯さない中央委員会の方針よりも、誤りつつ進む人々の行動こそが望まれている。
あまり多くの事を望みすぎ、少しの事しか皆さんに伝える事ができない事を心から悔やんでいます。でも、その少しのものの中に、本当の事をちょっぴりでも表す事ができていたら、本望です。皆、未来に向かってとぶんだから……。 |