カニは横に歩くのメモリィ

制作責任 河野秀忠

 メモリィは、1970年代初頭、神奈川県青い芝の会連合会が、昨今ドキュメンタリィ映像の名手と評される原一男監督の手を借り、制作した映画『さようならCP』の上映運動が関西に進出してきたことから始まった。
 当時、障害者市民自身が担う「層としての運動」は、萌芽の時刻にあったし、街なかに障害者市民の姿を視ることは稀有なことだった。一方世間には、国論二分した1970年安保闘争の熱気が残存し、けだるい敗北の総括がひとびとの表情をかすめていた。その時代を突っ切るように、ひとびとが予想もしなかった地平から、「人間の権利と解放」の旗を掲げ、障害者市民運動が、優れた指導者、横塚晃一、横田弘、小山正義、寺田純一さん等、複数のひとびととともに登場したのだった。その動きは、障害者市民自身にとどまらず、多くのひとびとに、動転されながら受け止められた。

『さようならCP』上映運動は、関西において、「差別のどん底にある障害者市民をさしおいて、上映運動に取り組むのは、無責任だ」VS「障害者市民の実情をまったく知らないからこそ、上映運動を進めるなかで、その実態をつかむべきだ」と、激しく論議され、ついには分裂に至った。そうして、後者の論に組みする若いひとたちによって、関西上映実行委員会(のちに関西上映事務局、障害者問題資料センターりぼん社に改組)が組織されたのだった。上映運動は、野火のようにひろがり、各地の障害者市民の感性と眼を洗い続けた。
 ある日、兵庫県西宮市での上映会場に、姫路市に住み、芦屋市の芸術学院で学んでいた脳性マヒの女性、Kさんが現れた。それ以後、Kさんは実行委員会事務所(新大阪駅前)に入り浸り、上映運動を手伝いながら主体としての自分を成長させた。ついには、「関東の仲間が作った映画を上映するだけではアカン。自分たちも仲間作りを始めたい」と、宣言したのだった。

 手始めに、Kさんが卒業した兵庫県立書写養護学校の卒業生に呼びかけ、学校に併設されていた同窓会館に集まることになった。上映事務局のメンバーは、毎週日曜日の午前8時15分、大阪駅発姫路行き快速電車に乗り込み、バラバラと姫路市内に散って、Kさんの同窓生を送迎介護することが仕事となった。この時の同窓仲間で、現在でも関西障害者市民運動の中軸を担っているひとは多い。また、惜しむらくはお亡くなりになったひとも………。
 集まったKさんの仲間は、散々に語り合った(文字板を交えて)結果、16ミリは無理だろうからと、街に出る活動に重ねて8ミリ映画を作ることになった。もちろん、カネも無い、機材も無いのナイナイづくしの開始で、カンパを募り、寄付を集めつつ、それら自身を映像化するという、奇妙な映画作りだった。障害者市民自身もカメラを操ったし、フィルムが無いからとカンパが集まった時点で、フィルムを買いに走り、撮影続行ということが当たり前の撮影風景。その模様は、関西テレビ・ドキュメンタリィにも転写された。

 ノーマライゼーション、バリアフリーなどの言葉がカケラもない30年前、こんなにも透明で、自意識がリンと立った障害者市民活動があったのだ。そしてKさんたちはいう「われわれは、何をしてきたのだろうか」と。けだし『カニは横に歩く』は、時代の名言である。そして今の時代、「われわれは、何をしているのだろうか」と、問うだけなのだろうか…………。