VS(ヴァーサス)マキさん 牧口 一二

マイペースを貫く学者ふう
    ピアカンの「姜」さん

姜 博久さん

 


 姜さんの子どもの頃、どんな状態だったんですか? 生い立ちからお尋ねしますね、在日でしょ、何世っていうこと?
 ボク、いつも二・五世って言ってるんです。親父からいうと二世、母親からは三世。
 あーそうか、ということは、お父さんやお母さんのこと、小さい頃のこと覚えてる?
 知らないですねぇ。親父は戦前に日本に来て、戦後いっぺん韓国に戻り、朝鮮戦争に従軍して、終わってまた舞い戻って…朝鮮戦争が一九五〇年に始まり、密入国で収容所に入って。親父は未だに永住権も持ってません。で、何年かごとに法務局に行って、在留許可の手続きをしてるみたいですけど。
 ボクが小さかった頃(まだ姜さんは生まれてない)、近所にわりと居てはった。ボクは大阪の寺田町で育ってて、廃車になった市バスの中で暮してはったの、覚えてるよ。

物心ついたときは在日で
なぜ、あんなに反発したんやろ?


 母親は裕福な家の娘なんです。西成に親が土地を持ってアパート経営してました。
 じゃあ、小さい頃の親たちの辛い話は?91VSマキさん
 聞いてないです。親父から聞かされたのは戦争の話ばっかり。とくに朝鮮戦争の話。
 じゃあ、被差別体験とかも聞いてない?
 そうですね。ボクが生まれて育った頃には、親父はもともと町工場の職人だったんですが独立して工場を持って、仕事を始めてた。
 へえー、そしたら姜さんはまるまる障害者として、いろいろ感じて生きてきたわけか。
 まぁ小さい頃は、韓国の民族舞踊とか、民族音楽とかに反発もありましたけどね。なぜ、反発を感じていたのか分かんない。結婚式あると、最後に必ず踊り始めるでしょ。そういうのに、嫌悪感を持ってましたね。
 そやから名前は日本名を使ってた?
 日本名は斉藤。親父は永住権を持ってないんで、母方の日本名も使ってみたくて。小学校時代、担任の先生の印鑑ボックスにボクの印鑑が2つ。斉藤博久と文山博久、なぜ?
 名前に対する思いは何かありますか?
 ボクが物心ついた時は斉藤だったんで、そこらへんの思いはなくて、姜を名乗り始めたのは全障連に入って年金問題から。在日無年金の運動に日本名ではサマにならないから。  (以下本文へ)



●姜博久
(かん・ぱっく)さんのプロフィール

◆一九六〇年 大阪市生野区で在日コリアンの両親のもとに生まれる。
◆一九六七年 就学猶予をいま一歩でまぬがれ、大阪府立堺養護学校に入学、小・中と九年間通学。
◆一九七六年 大阪府立勝山高校に入学、社会の中での障害者の位置を実感として味わう。
◆一九八〇年 一年間の浪人生活を経て関西大学二部(夜間)に入学し、資格を目指して入った商学部の授業に我慢できず、三年生で文学部に編入、大学で福祉の勉強はしないと誓ったはずが、卒論では奈良の大仏さんが作られた頃の障害者の法制度の実態を研究し、卒業後学内の雑誌に発表する。
◆一九八四年 関西大学の研究所で古代法制史料の研究補佐的な仕事のアルバイトに週二、三日従事しつつ、障害者法制史について在宅研究を続ける。
◆一九九四年 関大を卒業後、片脚を突っ込んでいたことが縁で、全障連関西ブロック事務局員として本格的に障害者運動の渦中に身をゆだねる。
◆二〇〇三年 大阪市大正区で障害者自立生活センター・スクラムを立ち上げ、三年後、NPO法人を取得、相談事業とへルパー派遣事業を始める。

 最近は、身体の弱体化に頬をひきつらせながらも、仲間の力を借りて、体力のペースに合わせて日々の暮らしを過ごす。恋愛以外は熱しやすく冷めやすい性格で持続力の無さに自分ながら困まりはてている。

 

 

 


 

 

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