ベルリン・未来への再出発


  ベルリンには、幸いにも、縁あって、3度訪れた。

 一度目は、1990年7月である。89年の壁の崩壊後半年あまり、分断の傷跡、その生々しい現実を目の当たりにした。
写真1 壁と東ドイツ国旗写真2 壁の落書き<ブレジネフのキス>(写真をクリックすると拡大します。以下同じ)

 スパイ小説の名著「寒い国から帰ってきたスパイ」(ジョン・ル・カレ著)などで有名な
チェックポイントチャーリー(検問所 写真3)もまだ残っていたし、まちではソ連兵の姿も見かけた。

 二度目は、ほぼ2年後の92年6月、90年10月の東西ドイツ統合後1年半、市内はだいぶ落ち着きを取り戻していた。

 三度目はさらに3年後の95年7月、なぜか訪問団の一員として、「公式に」訪れた。
 
混乱から再生への転換点で、まちは建設ラッシュにわいていた。




 89年夏ごろに始まる東ドイツ市民の大量逃亡とハンガリー・オーストリア国境の開放という大きな歴史のうねりの中で、開くはずもないと思われていた壁が、
あっけなく崩壊。(写真4 開放されたブランデンブルグ門  この辺の事情は岩波新書「ベルリンの壁崩れる」(笹本駿二著)に詳しいが、読み進むうちに国益というものを深く考えさせられる)


 ここに、ベルリンの
未来への再出発が始まった。


 91年には、ドイツ連邦議会は、首都をベルリンに決定、ただし、ボンにも連邦機能の一部を残すこととし、2000年までに移転が完了した。首都の移転が一部で叫ばれている東京のケースと逆である。
 首都機能は、旧東西ベルリンを分けていたシュプレー川の両岸に再構築されることとなった。(図5 首都プラン




 
ヒトラーの焼き討ちで有名な帝国議事堂(写真6)も再整備された。
 元の壁のあった周辺は重点的な再開発が実施され、かつてヨーロッパでもっともにぎわったと言われた
ポツダム広場周辺も、日本のソニーなどが進出し、再整備が進んだ。(再建ビジョンの詳細は「未来都市ベルリン」木村直司編 東洋出版 に詳しい)


 ある意味で、ベルリンは東京のお手本である。

 
JR(旧国鉄)東京駅とそこに至るアーチづくりの市街高架線は、ドイツ人鉄道技師ルムシュッテルの発案、同バルツァーの設計になるものであり、ベルリンの市街縦断高架線(写真7 フリードリッヒ駅を基本にしているとされる。(「東京駅誕生」島秀雄編 鹿島出版会 参照)
 JRと地下鉄からなる東京の鉄道網も、元はベルリンのSバーン、Uバーンのネットワークにならっている。
 そもそも明治のはじめ、日本は当時隆盛のプロシア、のちのドイツ帝国を模して国造りに励んだのだから、当然の成り行きであろう。


 ベルリンは、北緯52度、カムチャッカ半島南端に相当し、夏も湿度が低く過ごしやすい。
 面積は、東京区部の1.43倍、そこに350万人が住む。人口密度は区部の4分の1程度、
緑と水のあふれるゆとりの都市である。(写真8 ウンターデンリンデン通り写真9 郊外のヴァンゼー


 前回の訪問からすでに6年。

 ベルリンは
かつての勢いをとりもどしたのであろうか、都市づくりのキーワードとされる「分散的集中構想」は果たしてうまく機能しているのであろうか。
 
 いつか再訪を果たし、この眼で確かめてみたいものである。



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