晩秋の中国路 を行く
ことしは、急に寒くなったため、全国的に紅葉がきれいだという。
羽田から90分、中国路はそのまっただ中だった。
広島空港は、1993年に完成した山の中の空港。右旋回で着陸したが、翼が付近の山に接するかと心配したほどだ。
空港近くに、三景園という、空港造成ででた土砂を使って造ったという日本庭園がある。歴史は浅いがなかなかの風情、真っ赤な楓が目にしみる。
一路、広島市街から宮島へと車を走らせる。なにしろ秋の陽はつるべ落とし、先を急ぐのだ。
五年振りの宮島は、行楽シーズンで超混雑。社員旅行や、同輩の中年夫婦が多い。
前に来たときに修理中だった能舞台は直っていたが、その付近の別棟はまた修理中。なにせ海の上の木造建築で台風の通り道なのだから、八〇〇年前のものが現存しているのが奇跡のようなものだ。
ついその気になって、ケーブルカーに乗り、さらに高さ五三〇メートルの弥山(みせん)頂上へ。すでに夕暮れで、瀬戸内海に浮かぶ島々がシルエットとなり、印象的だ。
next
翌日も快晴、しかし気温が低く吐く息が白い。
今日は、宇部空港まで二百五十キロを走破するのだ。
広島北インターから中国道に乗り入れる。日本列島の背骨を貫く大幹線のはずだが、あらら、車がほとんどいない。山陽道と違って山また山で、めぼしい町を通らないし、沿線にほとんど観光地もない。これでは道路公団も大変なはずだ。
六日市インターで中国道を下り、国道187号線を津和野へ。
学生時代以来30年振り。
しかし、なななんと、あのひなびた雰囲気はどこへやら、名物スポットは観光客で満杯、ぞろぞろと連れだって歩いている。
そそくさと引き上げて、さらに五十キロ先の萩へ向かう。途中で島根県から山口県へ。ガードレールの色が県境から変わるのはどこも同じだ。
このルートは「幕末から維新への道」と立て看板が立っている。そしてそのまま埋もれてしまったようなところだ。ガソリンスタンド、コンビニすら余り見かけない。
next
萩の町は、ここも学生時代以来だが、あまり変わっていなかった。中心街にも高い建物はほとんどなく、かつての城址、三角形の指月山(しづきさん 標高143メートル)がどこからも見渡せる。
いまでは眠ったような町だが、良く知られているように、幕末から明治初期に活躍した志士たちを輩出した。現存する松下村塾など全くの「しもたや」だが、ここから新しい時代が始まったのだ。それにしても、当時だって山陰の小都市でしかなかった当地になぜ、という思いは禁じ得ない。
名物のウニ丼と思ったが、かわりにウニの炊き込みご飯を食す。美味なり。ハスイモとかいうサクサクとした付けあわせ野菜もうまかった。
町から見えた城跡の指月山に、しぶる連れ合いをせき立てつつ、つい登ってしまう。全山、木が茂っていて見通しは余り利かないが、日本海につきでた半島状の小山で、確かに城にはぴったりだ。
時間も押してきて、山口へと急ぐ。なにしろ、どうあっても夕刻の飛行機の時刻までに山口宇部空港まで行き着かないといけないのだ。
途中、瑠璃光寺へ。ここの五重の塔は名品だ。しかも拝観料がただなのがいい。以前より周辺の整備は進んでいるが、塔だけがぽつんと建つ雰囲気は変わらない。
檜皮葺きの屋根の曲線が優美でバランスがいい。
塔を眺めていると、山口線を走るSLの汽笛が遠くで聞こえ、一瞬、タイムスリップしたようだった。
next
我ながら欲張りとは思うが、せっかくだから、湯田温泉の日帰りの湯に立ち寄る。 時間はあまりなかったが、旅の垢を落として、もう思い残すことはない。
日も落ちて薄暗いなかを、一路、山口宇部空港へと向かう。急くときはそうなりがちだが、やっぱり、道に迷う。それでも、ガソリンスタンドで2日間世話になったレンタカーを満タンにしつつ、海に面した空港へ到着。
晩秋の中国路を、飛行機で飛びレンタカーで駆け抜け、いささか、せわしなかったが、ライトアップされた宮島の鳥居の朱と、例年以上の色合いの紅葉とが、脳裏に強く印象づけられた旅だった。