<川は山を登るか>
人工河川
「花見川 」 探訪


 

 






 千葉市に花見川という川がある。現在は政令市移行に伴い、行政区の名称にもなっている。


 この川は、新川とも呼ばれるように、その上流部は人工的に開削された川。

 中学の歴史の教科書にも出てくる、「印旛沼の干拓」のために、かつて掘られたのだ。






 その歴史は古く、最初は、今からなんと280年前にさかのぼる。水害防止・新田開発のために、地元の染谷某が企てるがあえなく失敗。


  60年後に、有名な老中田沼意次が幕府の事業として着工するも、本人の失脚で工事は中止。



 さらに60年後には、老中水野忠邦が、天保の改革の一つとして、沼津、庄内、鳥取、貝淵、秋月の5藩に命じて再度着工したが、やはり、水野の失脚で工事は中止。




 4度目の正直は、100年たった太平洋戦争の後。

流域住民の悲願の印旛沼の干拓が、国営事業として着工。
 その後事業は、水資源公団に引き継がれ、用水の供給も目的に加えた「印旛沼開発事業」へと変身。

 総事業費177億円で、20年余りかかって完成、1969に今の姿になった。




 もともとこのあたりは、上の地形図や下の断面図にもあるように、花見川河口、印旛沼とも
両端は、標高、数メートルの程度の低地
 千年前までは印旛沼は海だったのだから当然といえば当然だ。


 



 一方、中央部は標高20メートルから30メートルの北総台地。それを堀割って、しかもほとんど標高差のないところに、印旛沼の水を逆流させ、東京湾に落とそうというのだ。
 その証拠に、近傍には、逆水(さかさみず)という地名が残っている。


 言うまでもなく、水は高いところから低いところへしか流れないのだから、
分水嶺を越える堀込みの人工河川など至難の業である。


 現在の、できあがった形を見ても、自然流下ではなく、京成線のすぐ脇に大和田排水機場があって、大雨の時や、利根川の水位が高いときなどに、新川(印旛沼側)の水を
ポンプアップして、花見川(東京湾)側に落としているのだ。





 京葉道路を武石インターで降りて山側へしばらく行くと、花見川の土手に近づく。


やがて亥鼻橋。下流側は広々している(右写真)が、高圧線がうるさい。
 ここから下流は、元々の谷津田の水路を広げたのだろう。
 上流方面は、鋭く左にカーブし、細い谷津田に入っていく。もともとの小水路を広げたのだろうと思われる。



さらに上流方へ向かい、旧式の花島橋。この橋の上下流方とも、堀込みの雰囲気はある(写真左、花島橋から上流方を望む)が、谷津田を拡幅したものだろう。





 次の柏井橋は2車線ある橋で、渓谷にかかっている感じがする。(写真右 柏井橋から上流方)
 このあたりから上流に1km行ったところくらいが利根川(印旛沼)と東京湾にそそぐ拡幅前のかつての「花見川」の分水嶺で標高30m位である。
 下流からは4km位で水面は1/2000として2m位か。28m堀下げたことになるが、本当に大変な工事であったろう。


 右岸側は切り立っており、川に沿って進めないので鷹の台ゴルフ場の西端を北上し、右折して弁天橋へ。
 アーチ式の立派な橋(写真左)である。鷹の台ゴルフ場の東側一帯が堀込みは一番大変だったに違いない。ほとんど渓谷状である。


 弁天橋から上流は、河相が一変し、開けた谷津田の真ん中を進む。かつて北上していた谷津田の中の小河川を堀下げ、逆に流したのだから驚きである。



やがて八千代市にはいると、京成の鉄橋、国道296号線の橋、
東葉高速鉄道のモダンな橋梁、新成田街道の橋、村上橋、そのほか歩道橋と、橋の展覧会である。




 
大和田の排水機場(写真上)の水門は閉じたままだった。上流側は満々と水をたたえている。水辺ではフナ釣りの人が多い。






 印旛沼開発事業も完成後30数年経過。護岸の沈下や、排水機場の機器の劣化も著しいという。 

 新たな時代へ向けての印旛沼再生が求められているのかも知れない。





<水資源公団HP、国土交通省利根川下流河川事務所HPなど参照,
「カシミール3D」ソフト使用>



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