日本橋七福神巡り&ほか
*日本橋七福神のホームページ
*日本橋七福神散歩(中
央区観光協会)
*七福神巡りコース(地
図)(地図)
(地図)(地
図)(地図)
水天宮(弁財天):安産と水難、水商売に御利益がある。毎月5日は縁日でにぎわ
う。
安産・子授のお宮として超有名な水天宮。その成り立ちは、九州久留米藩の
有馬公が文政元年(1818年)久留米から分霊して屋敷内にお祀りしたのが始まりです。
毎月5日に限り町民にも参拝が許され、当時から多くの人々に親しまれてきた
日本橋七福神を代表するお社です。
お像は運慶作と伝えられる「弁財天」がまつられています。
水天宮の弁財天は「中央辨財天」と呼ばれ手に琵琶を持たず剣や矢を持つ勇ましい姿。
これは人の弱い心を正し導く慈悲の姿といわれています。
屋敷内社として、火風の神、鎮火の神、雨の神また、芸能・弁論・貨殖への霊験が
あらたかな神様です。有馬頼徳公も願掛けして、能楽のライバル加賀の前田公に
勝利した、という逸話が残っています。
普段お宮の扉は閉じられていますが、毎月5日と巳の日には、やさしいお顔が拝観でき、
毎年5月の第2巳の日に例祭があります。水天宮は、安産・子授けのお宮として有名で、
毎月戌の日は大変賑わって入場制限が行われることも。安産祈願は戌の日以外でも
受け付けているので、マタニティの方は平日の方が安心かも。
ご利益= 技芸上達・福徳自在
安産信仰で有名な東京水天宮のご祭神は、もとは九州・久留米藩有馬家で
祀られてきた屋敷神。文政元年(1818年)、参勤交代の際に三田赤羽の
有馬家藩邸に分霊され、江戸庶民の信仰を集めると、明治4年(1871年)、
現在の日本橋蛎殻町に移った。末社のひとつ、中央弁財天は、
9代藩主有馬頼徳公が加賀百万石の前田公と芸を競った際、弁財天に
願をかけたところ、めでたく勝利を収めたといういわれが残り、
毎月5日と巳の日にご開帳される。
初水天宮(1月のイベント):水天宮様は毎月5日と戌の日が縁日です。
文政元年、江戸三田赤羽の有馬藩邸に殿様有馬頼徳(よりのり)公が
領地久留米水天宮の御分社を神主に命じ建てられたのが創めです。
当時の水天宮の賑わいを表す流行り言葉に”なさけありまの水天宮”
という洒落言葉があった程です。御利益として安産祈願はもちろんの事、
子授け、水難除、渡航安全の神様としても有名です。
境内社として火風の神、鎮火の神、雨の神また芸能、辯論、貨殖の神
として通称辨財天市杵島姫神(べんざいてんいちきしまひめのかみ)が
お祭りして御座います。
水天宮例大祭(5月)『安産の神様』として広く知られる水天宮では、毎年5月5日午前11時から
神事を執り行います。例大祭では、祭りにつきものの露店が神社周辺に
毎年三十店ほどが出店されます。神田明神、小網神社など、各神社で
御神輿なども繰り出されます(毎年とは限りません)人形町、蛎殻町、
人形町商店街によって結成されている「奉賛会」のメンバーが率先して
提灯の飾り付けなど祭りの準備を行います。宮司が社に入り「奉賛会」の
メンバーや警察署長、消防関係者などが見守るなか、厳かな雰囲気の中で、
五穀豊穣を願い献撰されます。
松島神社(大黒天):11月に酉の市が開かれる。財
宝無限、大願成就に霊験あらたか。
明暦の大火(1657年)以前、周囲は歓楽街で人形細工職人、呉服商人、歌舞伎役者、
葭(よし)町の芸妓傾城等々、芸能関係や庶民の参拝によりたいへん賑わいました。
祀られている大国神は、密教の大黒天が元になり、大国主命と神仏習合して出来た
神道の神で、破壊と豊穣の神として信仰されました。現在は豊穣の面が残り、
大黒様として親しまれています。
11月の酉の市が往時
を伝える風物詩として今に遺っています。
酉の市:縁起物の熊手
は、祭礼の日に農具を売っていたのが始まりで、その熊手が
運をかき寄せるということに変化。お多福、小判、升、米俵、宝船などで飾り立て
酉の日に売られるようになった。室町期に神社が出来て以来延々と続いている
伝統の行事。収穫を神に感謝する新嘗祭で奉納したどぶろくを参拝客に
振舞ったのに始まる。今も周辺のビジネスマン達で長蛇の列が出来る賑わいを
見せいる。
ご利益=五穀豊穣・開運招福
口伝によれば、創建は鎌倉時代の1312年以前。当時、あたり一帯は入り海で、
松の茂る小島に建つ祠(ほこら)に毎晩灯火を掲げていたところ、舟人たちは
それを目標に航海の安全を得たという。その後、時代は下り、
正徳年間(1711〜1715年)。近辺を埋め立て、武家屋敷を造営するために
日本各地から呼び寄せられた職人たちが、松島神社に故郷の神々の合祀を
頼んだことからご祭神は14柱を数えるまでに。大国神もその社殿に合祀されている。
茶の木神社(布袋尊):周囲に巡らされた茶の木の緑
が見事。火伏の神といわれている。
かつて社の周りで、見事に生い茂っていた茶の木がその名の由来です。
下総(千葉県)佐倉藩主堀田家の屋敷神として布袋神が祀られています。
笑顔が優しい布袋様は、福徳円満と防災の神様として知られています。
また、この屋敷内はもとより、町方にも火災が無かったことから、
火伏せの神としても信仰を集めています。
ご利益=未来予知・金運の神
水天宮にほど近い住宅街に位置する茶ノ木神社。その昔、神社の周囲に
めぐらされた茶の木の緑があまりに見事だったため、「お茶の木様」と人々に
親しまれた。もとは下総の佐倉城主の大老・堀田家の屋敷で、ご祭神の
倉稲魂命(うがのみたまのみこと)はその守護神。屋敷はもとより
周囲の町方にも、長年火災が起こらなかったため、火伏せの神として
崇められている一方、合祀されている布袋尊も福徳円満の神として
広く人々の信仰を集めている。
小綱神社(福禄寿・弁財天):古くから福の神として
信仰を集めてきている。
11月にはどぶろく祭がある。
稲荷大神を主祭とし、540年前(文政元年1466年)に鎮座した歴史の古いお社。
「福禄寿」と「弁財天」が祀られています。総尾州檜造りの重厚な彫刻が
施された社殿と神楽殿は、中央区指定文化財。5月の大祭では神社大御輿で
賑います。また、11月末の「どぶろく祭り」は奇祭として特に有名です。
なお、“福禄寿”は福徳長寿の神、また“弁財天”は商売繁盛、学芸成就の
神として親しまれています
小網神社芽の輪くぐり(6
月)
陰暦の6月と12月の晦日は1年を2つに分けたときの最終日です。
次の新しい時期に踏み出すお祓いの神事が大祓。
6月は夏越しの大祓(なごしのおおはらい)といい、竹を軸にし
アシで作った大きな輪をくぐって身を祓う古式です。
この輪を越すことが祓(はらえ)であり、招福・除災になるという神事です。
またの名を俗に「胎内くぐり」とも言います。くぐり方は、まず入って左に回り、
また入って右にめぐり、再度入って左にめぐり、もう一度入りそのまま
神前に進みます。
ご利益=長寿幸福・包囲守護技芸上達・福徳自在
日本橋七福神の事務局でもある小網神社は、強運厄除の総本社で
約550年前の文正元年(1466年)に鎮座した古社。ご祭神は稲荷大神の
倉稲魂命(うがのみたまのみこと)で、明治期、神仏分離令により
廃寺となった寺に安置されていた弁財天と福禄寿を譲り受け、
配神と合わせて祀るようになった。大江戸飾神輿と呼ばれる、
独特の神輿が数年に一度渡御する5月の大祭ほか、11月に行われる
どぶろく祭が有名で、強運厄除のみみずくも授与される。
余談:以前はお賽銭(たったの5円)を入れるとどぶろくを杯で一口飲ませてくれて、
おまけに、一合ビンを一本くれるので何度も繰り返してあつめ、
みんなで飲んだという話もあるようです。
谷
崎潤一郎生誕の地、
谷崎潤一郎の人形
町を歩く、
末広神社(毘沙門天):毘沙門天は多聞天ともよば
れ、世界の守護神福徳の神とされている。
この辺りは元和3年(1617年)に幕府の許可の下、庄司甚右衛門らが葭(よし)の茂る
沼沢地を開拓して造った遊女町葭(よし)原(吉原)で、末廣神社はその氏神様として
信仰を集めていました。ここに祀られているのは毘沙門様。 多聞天の異名を持つ
毘沙門天は、世界の守護神であり、又、福徳を授ける神ともされています。
また日本独自の信仰として七福神の一尊とされ、特に勝負事に利益ありとして
崇められています。
ご利益=勝運除災・営業繁栄
日本橋らしい下町風情が残る一角に、ひっそりとたたずむ末廣神社。もともとは
この地にあった遊郭、葭原(吉原)の氏神で、末廣の名は延宝3年(1675年)に
社殿を修復した際、本殿から縁起のよい中啓(末広扇)が出たことにちなむ。
お稲荷様とともに合祀されている毘沙門天は、本来は竹甕槌命(たけみかづちのみこと)
という武道の神様。葭原が浅草の吉原へ移転してからは、勝運除災の神様として
幕府に仕える役人たちに広く崇敬された。
「葦原」とは「吉原」のことで、明暦の大火のあと、今の台東区に移って新吉原と
呼ばれるまではここに、遊郭があったそうです。この神社は、その吉原の大門への道
「大門通り」からちょっと入ったところにあります。ビルの谷間にあって、
森閑とした雰囲気の神社です。
笠間稲荷神社(寿老神):五穀、殖産興業の守り神と
して、また、長寿、開運の神として有名。
江戸末期 安政6年(1859年)、笠間藩主・牧野貞直が、日本3大稲荷のひとつ
常陸笠間神社の御分霊を江戸下屋敷に奉斎。以降、五穀をはじめ水産、殖産の
守護神として信仰を集めました。寿老人は長寿の神にして、お導きの神、
幸運の神として、人々の運命を開拓して下さる福徳長寿の守護神とされています。
ご利益=長寿延命・導きの神
日本三大稲荷のひとつ、茨城県の笠間稲荷神社の東京別社。ご祭神は
宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)で、農業、工業、商業、水産業など、
あらゆる殖産の守護神として信仰され、江戸末期に笠間藩主の牧野貞直公が、
本社よりこの地に分霊を奉斎したことにはじまる。寿老神が末社に
祀られるようになったのは、昭和51年(1976年)と比較的最近のこと。
長寿、お導き、幸運の神様として、人々の運命をよい方向へ
切り拓いてくれるという。
椙森(すぎのもり)神社(恵比寿神):柳森、鳥森と
ともに江戸三森。福徳、商売の神として信仰されている。
創建は約1千年前。田原藤太秀郷の平将門の討伐祈願や、太田道灌の
雨乞い祈願などの記録も残る古社です。祀られている恵比寿様は、右手に釣竿、
左手に鯛を持ち、はじめは豊漁の神さまとして、後に「えびす顔」と言うとおり
商売繁盛の神さまへと変化しました。江戸時代には神田・柳森神社、
新橋・烏森神社などと共に「江戸三森」として信仰されました。
10月の恵比寿神大祭は毎年大いに盛り上がっています。
聖徳太子がはじめて市をたてた時に、市の守護神として仰ぎ、商売の神、
福徳の神とあがめたことに始まるといわれています。
ご利益=商売繁盛・交通安全
一千年以上も昔の平安時代に既に存在していたという椙森神社。
文正元年(1466年)には、干ばつで苦しむ農民のために太田道灌が雨乞い
を行ったところ、その霊験があったとされ、稲荷山五社大神が祀られた。
寛文年間(1661〜1672年)に、特に信仰の厚かった神道家・吉川惟足が
恵比寿大神を奉斎。以降、現在にも伝わる「べったら市」で有名な
恵比寿大祭などの祭典が年々盛大に行われるようになった。
2011年5月には3年に1度開催される大神輿渡御も。
江戸時代には、ここで富くじ(宝くじ)を発行。その記念として、境内には富塚が建てられた。
宝田恵比寿神社(恵比寿神):祭壇の中央に安置して
ある恵比寿神像は、運慶作とも、
左甚五郎作とも伝えられている。
元々は皇居前にあった宝田村の鎮守様です。運慶あるいは左甚五郎の作とも
伝えられる祭壇中央の見事な「恵比寿神」像は必見です。慶長11年(1606年)
三伝馬取締役・馬込勘解由が徳川家康からこれを受けたと伝えられています。
恒例の「べったら市」は、“べっ
たり運がつく”と元禄時代から人気です。
余談ですが勘解由(かげゆ)の娘は「まりあ(お雪)」という名で、
ご主人は徳川家康に仕えた三浦按針,すなわちイギリス人ウイリアム・アダムスです。
人形町べったら市(10月19
日〜20日):「べったら市」は寶田恵比寿神社の恵比寿講の
ために立った市で慶長年間から続く秋の風物詩です。
賓田恵比寿神社から椙森神社にかかる一帯はべったら漬けを売る
テントや縁日の露店が所せましと並びます。べったら漬けとは、
江戸初期から作られていた大根を麹と砂糖で漬けられた浅漬け大根の
漬け物のことです。べったら以外にも、棒に小判、福升、米俵の
張り物などの縁起物が糸でつり下がった”おたから”を売る露店が
連なるさまはえびす講ならではの風景です。
ご利益=商売繁盛・交通安全
日本橋の恵比寿神は椙森神社と、ここ寶田恵比寿神社に二神が祀られている。
もとは江戸城外の宝田村の鎮守で、現在の皇居前にあったが、
徳川家康公による江戸城拡張により日本橋本町に移転した。
祭壇中央に祀られる恵比寿神像は、慶長11年(1606年)に三伝馬取締役の
馬込勘解由が徳川家から譲り受けたもので、運慶作とも左甚五郎作とも。
以来、繁栄、平穏守護の神様のご利益ゆえか、現在にも続く商売の地として
にぎわいを見せている。
伝馬町
牢屋敷 、、、
安政の大獄では吉田松陰など多数の尊王攘夷派の志士が投獄され、処刑されている。
牢屋敷は数寄屋橋門の南町奉行所から半里あまり。
大安楽寺(江戸伝馬町処刑場跡)伝
馬町処刑場跡の碑、
十思公
園(江戸伝馬町牢屋敷跡)
*日本橋七福神めぐ
り
*日
本橋七福神巡りコース
日本橋七福神めぐり「小網神社/茶ノ木神社/水天宮/松島神社/末廣神社/椙森神社/宝田恵比寿神社」
七福神めぐりとは、七福神(大黒天,恵比寿神,毘沙門天,寿老人,福禄寿,布袋尊,弁財天)を
祀る寺社を巡拝することで、七福神への信仰は、室町時代からあったといいます。
七人の神様の中には日本の神様もおられますが、中国・古代インドの神様が多くおられるのが
特徴で、我が国の神社・仏閣に祀られている本来の神様がそれぞれに七福神の神様と一体と
なられる形にて、今日まで皆様方に広く親しまれてまいりました。
日本橋七福神めぐりは、他所と異なり、すべて神社で占められているのが特徴です。
全行程2時間程度の歩きやすいコースで老若男女問わず人気があります
甘酒横丁まつり(3月のイベント)
明治の初め頃にこの横丁の入り口の南側に尾張屋という甘酒屋があり『甘酒屋横丁』と
呼ばれていました。当時の横丁は今より南に位置しており、道幅もせまい小路でしたが、
近くには「末廣亭」「喜扇亭」「鈴本亭」の寄席で賑わっていました。
関東大震災後の区画整理で現在の道幅になり、呼び名も『甘酒横丁』と現在も人々に
呼ばれています。甘酒横丁まつりは 人形町の甘酒横丁会が毎年実施している行事です。
婦人部がふるまう甘酒や、甘酒横丁の名品があたる好評の三角くじ等、下町情緒あふれ、
明治座の客などでにぎわう行事として親しまれています。
*日本橋七福神巡り
*東京の七福神巡り
*東京の七福神(日本
橋七福神)
*日本橋・人形町でのポイントの場所
*今半(す
きやき)、魚久(粕
漬け)、人
形町志乃多寿司総本店、人形焼き・瓦せんべい/人形町亀井堂、
親子丼で有名な「玉ひで」、三原堂、小津和紙、