20世紀の医学医療をふり返る
ペニシリンの発見 −抗生物質の始まり −
平成12年2月20日 日医ニュース
フレミングは、いつも実験台に40から50個のシャーレを置き、二〜三週間放置後、それを処分するとき、一つずつ何か変わったことが起きていないか丹念に調ペていた。二週間ほど前、フレミングが風邪にかかっていたとき、培地に落とした鼻粘膜周辺の細菌のコロニーが透明になっているのに気が付いた。

この溶菌作用のある物質をリゾチームと命名して、1922年『王立協会紀要』に発表したが、あまり注目されなかった。
 
その後、フレミングはセント・メアリー病院でぶどう状菌の研究中、いつものように実験台に放置されていた培地を調べていた。培地のなかにどこからか飛び込んできたカピの周辺のぶどう状薗のコロニーが澄明にになってるのに注目し、溶菌作用のある物質の研究に没頭た。その成果を「ペニシリウム培養液の抗菌作用」と題して、1929年『英国実験病理学雑誌』に発表し、このなかでペニシリンは遅効性の殺菌剤に属すると述べている。ペニシリンの研究はその後も続けらたが、他からの関心は低かった。

しかし、一1935年ドイツのドマークによるプロントジルの発見、第二次欧州戦争の勃発などが契機となり、ペニシリンの研究は急速に進展した。1935年、フローリ、チェインによりペニシリンが抽出され、1942年精製されたペニシリンによる臨床治繚実験が成功し、1943年にはアメリカで大量生産が開始された。

フレミンクによるノイチーム、ペニシリンの発見は偶然の発見ともいたいわれるが、パスツールは『偶然はは準備していた人だけに恵まれる』といっている。

そのパストツールは1879年、にわとりコレラの弱毒菌による免疫を発見している。研究中、にわとりコレラの培養薗を接種しても死なないにわとりがいた。培養薗が古くなったためと考え、新しい培養薗を用い、死ななかったにわとりと新たに購入したにわとりに接種したところ、前者は無事で、後者はすペて感染して死んだ。免疫療法の発見である。フレミングのノイチーム、ペニシリンの発見と共通面が見られる。

抗生物質の発展は目覚ましいものがあるが、その先駆的研究として、1928年、フランスで発行されたパパスコとゲイトの著書で、カピや細菌による他の細菌の発育阻止について広範な問題を扱っているという。このなかでは1889年、ビュルミンによって提唱された「antibiotics」という表題で、これまで発表された観察が数百の引用文献とともに挙げられているという。

わが国では、1944(昭和19)年、軍医学校の稲垣克彦軍医少佐の奔走で軍官民の研究体制が組まれ、年末には国産ペニシリン・碧素が誕生(森永薬品)した。その克明な記録は、当博物館(内藤記念くすり博物館)に保管公開されている。


もとにもどる