結核と文学 『風立ちぬ』における結核 |
1950年代の初め頃まで結核は不治の病であった.幸運にも治癒する人もいたが,結核に罹患すれば,まず死亡することが運命であった.文学者のなかにも樋口ー葉,石川啄木,正岡子規,長塚 節,宮沢宰治,梶井基次郎,堀 辰雄などが若くして命を奪われている.結核による悲劇を描いた作品としては徳富蘆花「不如帰」が有名であるが,結核そのものをテーマにした作品はあまりない。 テーマにするにはあまりにも悲痛であったのであろう.若くして亡くなった文学者たちも結核に罹患したことによってモチーフ,テーマなどに影響を受けたであろうが,結核そのものを真正面から取り組むには,あまりにも無力で厚く因難な璧であった. そんななかで堀辰雄の『風立ちぬ』は結核そのものを描写している.この作品は1938年に掘 辰雄34蔵のときに刊行されている.辰雄は婚約者矢野綾子の結核悪化によって信州富士見のサナトリウムにともに入院して,綾子に付深い,その死を看取る.その期間の綾子の病状と,信州の自然を詩情あふれる言葉で書いている.運命以上の生の思想を知性と叙情の融合した文章で描き,散文芸術の一極致を示すといわれている. 呼吸器専門医になって『風立ちぬ』を読み直すと不治の病であった頃の結核のことがよくわかる.当時は咳が続く,微熱がでる,喀血したとなればすべてを結核に帰していたようで,『風立ちぬ』の全編に肺病とか,肺結核とか肋膜炎という病名は出てこない.それくらい結核は国民病であり,亡国病であった. 現在と違い抗結核薬のなかつた頃,患者は少し嗄れ声になり,ほてったような顔,ときおり出す熱,食欲を失い,痩せが目立ち,熱のせいで頬は薔薇色をおび出し,激しい咳の発作,すこし血痰を出すなどの症状が続くと,「絶対安静の日々が続いた.病室の窓はすっかり黄色の日覆いが卸され中は薄暗くされていた.看護婦達も足を爪立てて歩いた」という現在では考えられないような安静療法の掩写がある.この症状の変化は結核でもかなり激症の型の進展である.結核ほど千変万化の病気はない.病状の進展もそうであるが,レントゲン像もいろいろな変化がある. 「院長は私を窓際に連れて行って,私にも見よいように,その写真の原板を日こ透かせながら,一々それに説明を加えて行った.右の胸には数本の白々した肋骨がくっきりと認められたが,左の胸にはそれらが殆ど何も見えない位,大きな,まるで不思議な花のような病巣ができていた.「思ったよりも病巣が拡がっているなあ.・・・…こんなにひどくなってしまっているとは思わなかったね.これじゃ,いま,病院中で二番目らいに重症かも知れんよ‥‥‥」 この描写など驚嘆する程に詳細で素晴らしい.辰雄は冷静こ医者の言葉を聞き,信じられないくらいにレントゲン像を記憶していて活写している.結核の薬のない頃は2cmの空洞があれば,患者は3年以内に死亡したと聞いている. 辰雄はその後,他の女性と結婚するが,1953年に49歳で結核性胸膜炎のため他界する. 辰雄の晩年の煩からストマイ,ヒドラ,パス,エタンブトール,リファンピシンなどの抗結核薬が間隔をおいて登場し,それに胸郭成形,空洞切開,肺葉切除などの外科的療法を併用しながら,結核は次第に治癒する病気となっていった.結核にかかることが遇酷な運命と諦念であった時代は終わり,文学のテーマからは遠ざけられていった. これからはエイズや臓器移植,遺伝子治療などが文学のモチーフやテーマになることであろう.たが,結核は「再興感染症」として注目を集めてきている.結核と文学のかかわり合いを認識することも意義があることであろう. |