高田集蔵先生について
■竹鄰会報114号 高田集蔵著書刊行会を終わるに当たって(高田満穂)
会報の前号に二十八年間の活動を書きましたように、この号で終わりになります。長い間お付き合いくださいましてありがとうございました。
振り返って「竹鄰会報」創刊号(昭和四十六年一月発行)に目を通しますとその創刊の言葉の中に「高田集蔵追悼録」を上梓して刊行会が発足して、「竹鄰思想」 は永久に保存されなければならない、書き残された遺稿類や絶版になった旧著が皆無になることは非常に残念である、ぜひ刊行して全国の有縁の方々の書架の一隅に保存し、長く残しておくことが望まれる、と書いています。
また同号で平野勝見氏は高田先生を紹介して「八十一年の全生涯は真理の探究に捧げられた。先生の一生は求道の一生であるとともに、極く少数の人々に対する伝道の生涯であったと言えるであろう。聖書、スエーデンボルク、仏典、儒書、易経、老荘、日本古神典、その他あらゆる思想、信仰に関する先生の霊的探求は、神の実在と霊の存在とを実証した。」と述べている。
二十八年間にお蔭様で六十冊の刊行と会報百十四号までの発行ができたことは感謝のほかありません。これらの刊行物を十分に味読して、末長く後世に残すことがこれからの我々の課題だと思います。最終ページに刊行図書の一覧があります。会員制のため既に在庫がないものが多いのですが、まだ残っているものもありますので、読んでくださいますようお待ち致します、全部無料です。
発足以来ご協力いただいた方々は次のとおりです。
磯淵徳義(香川)、岩田澄子(岡山)、上北亀吉(香川)、上北富夫(香川)、打越清七(香川)、遠藤御鈴(東京)、大竹一灯子(東京)、岡田孝基(香川)、片上修(愛媛)、 河井忠男(香川)、木南卓一 (大阪)、木村忠男(香川)、河野通暢(静岡)、酒井欣一(愛知)、佐藤操(東京)、渋谷協(神奈川)、杉山英幹(香川)、須藤稔子(静岡)、高田昇平(東京)、高田八千代(岡山)、高田満穂(東京)、竹内敏子 (京都)、寺竹俊宏 (香川)、寺田清一(大阪)、鳥谷部陽之助(青森)、永島吉太郎(茨城)、平野勝見(神奈川)、平野道夫 (香川)、深尾真乗(滋賀)、深見伝右衛門(大阪)、宮原誠(岡山)、南政行(愛媛)、森本謙三(岡山)、山口勝朗(東京)、山中勝之(香川)、吉沢伸平(東京)、渡辺淳一(香川) (敬称を省略いたしました)
このほか息子さんの代に変わったり、奥様が引き継いで会員になってくださっている方も多くあります。また、会の最初からお世話くださった長尾宏也様(神奈川)や、先生の娘さん高田慈雨子様が今年になってお亡くなりになりました。長いこといろいろとご協力いただいて本当にありがとうございました。友が友を呼ぶ、で有縁の方をご紹介いただきこの会も滅亡する事なくやって行かれたのも皆様のお力と感謝のほかありません。
最後になりましたが、最初から刊行会に力をお貸しくださり、原稿の作成やら、企画を考えてくださいました平野勝見様は最後までボランティアで尽くしてくださいました、ここに改めて感謝の意を表します。
重ねてお願い致します。今まで刊行しましたものを再び読み直したり、友人にお勧めしてください。また、こちらに残っている在庫の本を有効に活用してください。(無料でお届け致します)
「高 田 集 蔵」
−大正畸人伝より抜萃−
昭和四十六年に「高田集蔵追悼録」を発行したが、その中に「大正畸人伝」(大正十四年十二月鳥谷部陽太郎著 三土社発行)から抜萃して「高田集蔵」の項を転載して紹介させていただいたものがある。それを再度掲載して皆様に読んでいただきたいと思う。
(1)深山木を切らず刻まずそのままに
拝めばじきに仏なりけり
これは高田さんの歌である。高田さんにとっては仏は神であり、神は親様である。けだし高田さんは基仏両教にたいし均等の信仰と趣味とを持ち、殆ど宗教的のプレジュディスを挟むことなき方なのである。
そして高田さんは
父母妻子たからもすてて出で来れ
わが行く道に聖の道に
百年を齢にかへてまごころの
一日をわれにめぐませたまへ
と歌う一求道者であるが、例えば飛鳥山などにて、人あまた花の下に狂い興ぜるを見ると、
舞い歌ふ人をうとみて書よみし
むかしはわれもおさなかりけり
人みなと共に酔ひ舞ふすべのあらば
いかにたぬしき花の蔭ぞも
と歌う風懐の持主でもある。
さて高田集蔵の四字は一部の人々の間にはかなり深く印刻されている名に相違ない。高田さんは「聖痕」や「非僧非俗集」や「老子の言葉」や、「空虚の哲理」 その他二、三の著書があり、それに「鳥跡集」と題する歌集もある。
しかし高田さんの面目は、そうした著書によってよりも、高田さん流の個人雑誌によって、一層人々に懐かしまれて来ている。私の高田さんを知ったのも、そうした高田さんの印刷物によってであった。
今から十四、五年も前のことだ。そのころ高田さんは神戸の聖書学校の教職を捨てて、大阪の郊外に移り住み、そこで小さな印刷機械を買い込んで、自分の信仰所感を綴って、自分で文選、植字をし、自分で印刷、製本までして、四方の高田さんの所謂同志に頒ったものだった。雑誌の名前は最初は「独立」といったが、それが後に、「村落通信」と改まった。即ち近ごろ流行の個人雑誌の元祖は高田さんだったのである。
あの物質の都、煤煙の都なる大阪を背景として高田さんは預言者のように道を説いた。そして高田さんの巧妙脱俗の文章がいかに当時の求道に志ある青年を魅了したか知れなかった。
しかし高田さんはそうした独立孤高の生活を五、六年ばかりも送ってから何に感じたのか、一家を挙げて上京して来た。そして郊外池袋にト居した。だが何ら生活の保証なくして妻子を同伴して来た高田さんは、一両年たらずしてパン問題に外部的に行き詰まらざるを得なかった。
一きれの薯をかたみにゆずりつつ
飢えを競ふもかなしかりけり
三日ぶり米の飯はむ稚児は
チュンチュンにもと門に出でつつ
雀ならばともに踊らんこころかな
三日ぶりにはむ飯のうまさを
三日ぶりに米の飯はみ吾が妹子は
乳房はるとて喜びにけり
貧しきを妻とぞ呼びにしいにしえの
ひじりのあとのしのぶころかな
(2)そのころの一日、高田さんは神田の私の下宿へ訪ねて来て、懐中から自作の「没落」一篇を取り出して読んでくれた事がある。高田さんはその一篇で、なおあくまでも神仏の大慈光を賛嘆してはいたが、しかし自分の窮迫生活を顧みて、さすがに多少の嘆息を漏らしていた。そしてこの「没落」一篇は唯物主義者の親玉堺利彦氏宛に書いたものだが、これに対して堺氏は跋文を寄せた。
その跋文は、この唯心唯物両主義者の面目を語るものとして、私にはかなり興味がある。それでその全文を次に掲げて見よう。
「今日の社会にあっては如何に尊貴高尚なる、あるいは如何に超世脱俗なる生活を送る人でも、その生活のうえに必ず幾分の営業的色彩を帯びない訳に行かぬ。ゆえに道徳業、宗教業、聖人業などという職業が出来る。
僕は勿論それを非難するのではない。ただ諸君が明瞭にその事実を認識せんことを希望する。それを認識したうえで自覚的に妥協の範囲を限定する方が、かえって妥協が少なくてすむ。
それを認識せぬ人は、妥協せぬと言いながら存外大きな妥協をする。小田頼造君なども、その認識を頑強に拒んだ人で、そして実際には存外少なからぬ妥協をしているのに気が付いて、その苦しさがこうじてついに死を早めたものじゃぁないかと考えられる。
高田聖人が「没落」の一篇において、聊(いささ)か悲哀の調を発したのもやはりこの認識を拒否する苦悶の声である。しかし彼も一かどのつむじ曲がりである。いまさら降伏的認識をもって楽地を作るものではあるまい。しからば彼の将来は、無意識的(もしくは偽善的)妥協か、さもなくば慢性的自殺の外はない。
僕の批評は冷酷である。しかし批評以外に同情の涙はある。ただその涙の安売りは却って聖人の徳を汚すものと信ずるゆえに、僕はむしろ諸賢人の続々相率いて自殺せんことを望む。男の意地だ。仕方がない。 聖人及類似者御中 」
(3)またそのころのこと、私の下宿は、神田の大火のために丸焼けとなった。その翌日何処に泊まるというあてもなくぶらぶらしていた私の手に一枚のハガキが配達された。その差出人は高田さんだった。
「火事と聞いてはるばるかけつけてみると、あなたの塒(ねぐら)も丸焼けになっていました。鳥の行方を有終館に探したが、もう飛び立った後でありました。お互いの身の上にいつかのがれぬ劫火の小さい影を見て私は少し考えさせられた。火よりのがれ出たわたしのかわいい赤い鳥は今夜はどこで寝てるやら。
燃ゆる火の中ゆ立ちける赤いろの
親なし小鳥宿はいづくぞ
やけ野なるきぎすに君をたぐえつつ
子を思ふわれ鳥にやはあらめ
(4)かように私の塒を心配してくれた高田さんは、それからまもなく、ご自分の塒を解放せねばならなかった。私は今でも覚えている。
私はその頃、日比谷のローマ字ひろめ会につとめていたので、そこの事務所からの帰り、例のように有楽町の停車場のプラットホームに佇んで電車の来るのを待っていると、そのとき東京駅から発車してきた下関行の汽車の窓から、一人の男が伸び上がって、こっちに向かって手を上げていた。それは余人ならぬ、わが高田さんだった。高田さんはプラットホームにいる私を認めてくれたのだ。
それ以来、高田さんは数年の間一所不住の漂白生活を続けていたらしいが、何時か私が妻を失ったことを誰かから聞いたと見えて、芦屋から高田さんらしい悔やみ状をくれたことがある。そしてその中に池袋の家を解散して奥さんと別れた当時を回想した次のような一節があった。
「私は愛するものと死別はせぬが、それよりもモット辛く悲しい経験をしたことは、あなたも伝え聞かれたでしょう。しかし誰ひとりとして私に同情してくれるものもなかった。恐らく人に同情してもらい、慰めてもらうには私の苦しみはあまりに深かったからであろう。しかしそのお陰で私は新生した。神とともに独り立つより強い男に新生した。二人の子供を重い亜鉛のように左右の手にぶら下げたなり私の鉄筆は日々すみやけく運ばれて行く。この筆一本で開拓して行かねばならぬ漠々たる人心の曠野を望んで、全身にハチきれるほどの元気の湧くことを覚える……。」
(5)高田さんはいま大阪にいる。高田さんは、高田さんにとって第二の故郷である筈の大阪に落ち着いたらしい。そしてこの正月頂いた高田さんからのお便りには、次のような詩が認められていた。
窮士新年不烹餅
飲水苦語宙宇荒
依然襤褸君休笑
天文地章吾衣裳
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更新日2001.04.21