終戦記念日(2009年8月15日)

  1. あの頃の思い出

    終戦の一か月前、私の住んでいた呉市はB-29の焼夷弾爆撃で焦土と化した。 私が通っていた呉一中も焼失し、郷里の郷原村から徒歩で片道3時間掛けて焼跡の中学校に通っていた。 86日には遅刻して、午前8時過ぎ、学校の校庭が見通せる二河川の橋の上で朝の弁当を食べていたら、“ピカッ”と強烈なフラッシュの様な閃光が走った。 呉市は広島から汽車で1時間の所にあり、数百メートルの山塊で遮られていたので爆風も爆発音も届かなかったが、閃光の後しばらくして、山の上にキノコ雲らしきものが見えたのを思い出す。 当時は夏休みであったが、学徒動員の準備で「たがね」を打つ練習を、焼跡の急拵えのバラックでやっていた。 8月15日、重要な放送があると云われ、校庭に皆集まってラジオを聞かされたが、雑音の中に埋もれて天皇の声はよく聞き取れなかった。戦争が終わった事だけは分かり、すぐ解散になった。 私が思い出す不思議な光景は、炎天下のアスファルト道を茫然と、もと家のあった方向に歩いて行く自分の後ろ姿だ。 人っ子一人いない道をこちらに背を向けて歩く自分の姿だけがなぜか脳裏に焼き付いている。
    当時の私は、完全な軍国少年で、小学校卒業前には少年飛行兵に憧れて実際に試験を受けたほどだ。 聴覚不良で不合格にはなったが、鉄棒の連続回転100回、逆立ち歩き50歩が出来て、ひたすら霞ケ浦の「少年飛行兵」を目指していた。 戦争の何たるかを知らない、社会風潮に染まった幼稚な男の子だった。

  2. 天皇の戦争責任

    当時成人だった人達の思いを今、テレビが伝える。 敗戦を契機に天皇が辞任しなかったのはおかしいという意見が圧倒的に多い。 勝ち目のない戦争をしたのは当時の軍部であるが、最終的な決断は天皇の裁決に拠った。 だから、昭和天皇には国家元首としての責任がある。 これは明快な論理だ。 しかし、終戦当時の政府は、天皇を戦争犯罪者にすると日本国の崩壊を招くと考え、連合軍にその事だけは譲歩しなかった。 日本政府は無条件にボッタム宣言を受け入れず、国体保持を条件にこれを受諾した。 連合国側にはこの条件付き降伏に異議を唱える国もあったが、アメリカのトルーマン大統領は連合国側に妥協を勧め、日本の要求は通った。 こうして、戦争責任の総括はうやむやにされ、責任を取るべき軍人、政治家が戦後に活躍する場を与えられた。

    マッカーサーがソ連共産主義の蔓延を防ぐため、日本の左傾化を抑圧したのも、天皇制保持に味方した。 新憲法では天皇は日本国の象徴となり、国体維持に奔走した政治家たちの行為は報いられた。 日本の取るべき道は彼らによって歪められた。 天皇制を廃止し、真の民主主義国になるチャンスは、かくして葬り去られたのである。

    未だに終戦記念日の靖国神社参拝が続けられ、一方では平和憲法の改悪が主張されているが、これらも天皇に責任を取らせなかった日本人の、戦争責任に対する曖昧な態度がその根底に潜んでいるからである。

    20世紀当初の世界的な帝国主義の波に乗り遅れ、欧米と対決せざるを得なかったと云う運命論的な見方をする人がいるが、戦争を回避する指導者はなぜ現れなかったのだろう。 世界の帝国主義国はすべて国際的な犯罪者である。 しかし、戦争に訴えても自国の権益を拡大しようとした日・独・伊の取った選択は、「犯罪者中の犯罪者」の烙印を押されても仕方ない愚行であった。

  3. 戦争が齎した功徳

    欧米先進国に植民地化されたアジアの国々にとって、日本の敗戦は民族独立への絶好の機会を与えた。 日本が大東亞共栄圏樹立の名のもとに欧米と勇敢に戦った姿は、これら植民地の人々に民族独立戦争を戦う勇気を与えた。 インド、中国、台湾、ベトナム、インドネシアなど、完全な独立を勝ち取るまでには困難な紆余曲折があったが、ある意味で、日本の兵士達の勇敢な捨て身の攻撃が、彼らの自主独立心を大いに鼓舞したのは間違いない。
    大航海時代から続いた植民地拡張主義、帝国主義の侵略性に終止符が打たれ、敗戦を機に多くの植民地が独立を勝ち取った。 これらは強いて言えば第2次世界大戦の齎した功徳とも言えよう。

  4. 冷戦の開始

    終戦当時、連合国側には既に冷戦の対立が醸成されつつあった。 幸いにも日本は、米国の主張により、米ソの分割統治とはならず、朝鮮やドイツの民族分断の悲劇を回避した。 しかし、中国は国共合作で戦って来た為、どちらが中国を治めるかをめぐって毛沢東と蒋介石軍の内戦が始まった。 ベトナム民族戦線は宗主国フランスを破ったが、反共を旗印に米国に介入され、共産政権が自国を統一するまでに長い時間と膨大な犠牲を払った。 冷戦構造の対立には巻き込まれなかったが、インドネシアはオランダとの独立戦争を戦い抜きやっと独立国となった。 インドは宗教対立によって2分され、後にイスラムの東西パキスタンが分離してパキスタンとバングラデシュとなり、最終的に3つの独立国に分離して独立を果たした。 2次世界大戦は終結したが、今度は共産主義と民主主義と云うイデオロギーの対立する時代が到来し、世界の国々は米ソ2大陣営に組み込まれて行った。

  5. 世界平和の時代は来るのか

    長く続いた冷戦対立の時代は、ベルリンの壁崩壊を期に氷解し、ソ連邦に組み込まれていた色々な民族国家が独立した。 やっと平和な時代が訪れたと思う間もなく、今度は民族紛争の時代に入り、ユーゴスラビアの分割、チェコスロバキアの分割などが起きた。 なかでも、イスラエルとアラブの中東紛争は解決の目途が立たず、イスラム勢力圏とイスラエルをサポートする米国の対立へとエスカレートし、新しい「テロリズムの時代」へ移行して行った。 歴史が平和へと舵を切るたびに、新しい紛争の火種を起こし、世界が平和になる事を妨害している黒幕がいると、私には思えてならない。 かって、アイゼンハワー米大統領は、国内での軍需産業とそれを利用する軍国主義政治家の癒着の構造に強い警告を発した。 ブッシュ大統領と“ネオコン”の癒着が、中東紛争を拡大し、世界中がテロの脅威に晒される時代を演出した。 その裏には、戦争で儲ける強力な資本家グループの策略が見え隠れする。 これも拝金主義に陥った資本主義の末路ではなかろうか。