人類の欠陥(03/3/14)

生物誕生以来35億年、単細胞生物から多細胞生物に進化し、脊椎動物が現れ、その中から哺乳類が分化し、さらに時代を経て猿類が分化した。 数百万年前、類人猿の中に二足歩行する人類の祖先が現れ、幾つかの原人を経て「ホモサピエンス」に進化した。 それが現代地球上を席巻している我々人類である。

35億年の間、環境の変化に対応出来なくて無数の生物が絶滅したり、新しい種へと変貌して行った。 その間、生き残りを賭けて生物間の生存競争は激烈を極め、人類は生き残りに成功した。 生き残る為には他の動物を殺し、人類同士の殺戮を勝ち抜かねばならない。

この自然の掟によって、闘争心が強く身体が頑強で知恵が働く者ほど生き残った。 従って、現代の人類が闘争心、体力、知力を兼ね備えているのは至極当然の帰結である。 これら天賦の能力は人類繁栄の原動力となったが、反面、人類の持つ本質的な欠陥として、現在我々を深刻なジレンマに陥れている。

有史以前、以後を通して、戦争の無かった年は無い。 昔は人間を襲う肉食動物と戦ったが、人類が火を使う様になってその被害は急激に減った。お陰で人類は繁栄し、地球の隅々まで未開の地を求めて拡散して行った。しかし、生活の縄張りを守る為、グループ間の争いは跡を絶たず、長い年月の間に分化した異民族間の抗争へとエスカレートして行った。その傾向は近代国家共存の現代にも引き継がれ、未だに国際間の紛争が絶えない。 その真の原因は人類が過酷な自然環境を生き残る為に獲得した「過度の闘争心」にある。 

人類が地球を支配した現代、「過度の闘争心」は無用の長物となり、人類の長所から、時代にマッチしない「人類の欠陥」に成り下がった。 賢い人類はその事に気付き、本能的な闘争心を抑制して共存共栄の世界を構築して行かなくてはならない。 しかし、残念ながら、人類の持つこの欠陥に気付く人は誠に少ない。 大多数の人は、本能の赴くままに行動している。「人類は皆兄弟」と言った日本船舶協会の会長がいたが、今人類にとって最も重要な事は、無用の長物となった「過度の闘争心」を「人類の持つ欠陥」として自覚し、規制して、平和な世界を築く努力をする事である。

ブッシュが今遣ろうとしている事は、それと正反対の愚行であるが、彼らは未だ「人類の欠陥」に気付かないで、本能の赴くままに行動している時代遅れの哀れな遺物に過ぎない。 フセインも勿論同類である。

残存する生物の持つ繁殖力は全て過度である。 それは生き残りの原動力であり、それ自体善である。

しかし、60億以上の人口を擁し地球を食い潰している人類にとっては度を過ごしている。 人類に対し自然のバランス調整機能は正常に作動しない。 人類は自分自身で有り余る繁殖力をコントロールするしかない。

最近日本でも少子化問題が議論されているが、この狭い国土に12000万の人口を擁し、高齢化、交通渋滞、資源枯渇、土地問題、受験戦争など過剰人口に起因する深刻な問題に悩んでいる。 

炭酸ガス規制と同様、国連は人口にも規制を掛けるべきであり、世界の国々のコンセンサスを取って各国の適正人口を設定し、世界の人口をこれ以上増やさない様な対策を早急に採るべきである。

人類は大脳皮質が最も発達した動物であり、その知力によって今日の繁栄を築いた。 しかし、「悪知恵」を働かす為にこの貴重な能力が使われる事は日常茶飯事である。 これを人間の「過度の狡猾性」と私は名付ける。

今日(319日)も、国会の「党首討論」でイラクに対する宣戦布告の是非を議論していたが、小泉首相の答弁は野党党首の質問に正々堂々と答えておらず、論理を弄ぶ「狡猾性」「欺瞞性」そのものであった。

「ディベート」の基本は相手の言う事に正確に反論することであるが、それが出来ない人は論理のすり替えで狡猾にその場を塗布する。 これは政治家の常套手段であり、人間が犯す犯罪、特に詐欺罪では「過度の狡猾性」が臆面もなく繰り返されている。 「ねずみ講」や「怪しげな投資話」の発案者は頭が良く、誤魔化しの論理を「如何にもまことしやかに」展開し、人を騙す。 騙される方は、欲に目が眩んでいて騙されている事に気付かない。 詐欺師の方が一枚も二枚も知力に優れている。

ブッシュ大統領のイラク戦争肯定の論理も「過度の狡猾性」を最大限に活用した一例に過ぎない。 情けないのは、日本の首相が無批判にそれを受け入れ、アメリカの言うなりになっている事である。 日米安保条約もアメリカ追随を義務付けてはいない。 気骨のある政治家が残念ながら日本にはいない。 

人間は社会的な動物である。 一方、人間は自己中心に行動したい。その行動が公共の福祉に反する事がしばしば起り、二者選択を迫られる。

民主主義とは、そのような場合は「多数決で決める」と言う単純明快な方法を取る。 過半数の人が賛成する方策を優先し、反対者には諦めて貰うしかないと考える。 少数意見を尊重して、出来るだけ反対者が不利にならない様に計らう気遣いも重要である。

自己中心に行動するのは、個人が生きていく為に必要である。 全体主義は社会全体に過度の重要性を与え、個人の自由を抑制し過ぎる。 個人主義は出来るだけ個人に自由を与え、社会性からの規制を出来るだけ少なくしようとする。 要するに、妥協点をどの辺に置くかの違いである。

日本の現状を見ると、今横行しているのは真の個人主義ではなく、個人のエゴの過度の容認である。 これを個人主義、民主主義と勘違いしている人が多い。 土地政策の失敗、成田闘争、道路網計画の頓挫、政官財の癒着など、個人のエゴの規制に失敗した事例は枚挙に事欠かない。

知恵の発達した人類は、社会と個人の軋轢を如何にスマートに解決するか、本能的に持っている「過度のエゴイズム」と言う人類の欠陥を如何にして取り除くかを今後も問われ続けるだろう。

知能の高い動物ほど好奇心が高い。 人間の好奇心はその際たるものである。

自然界のメカニズムに関する好奇心が科学研究を盛んにし、宇宙の成り立ちから生物の進化までの謎を殆ど解き明かした。 「科学の終焉」が近いと予見する科学者もいる。 最近は、自然界に存在しない新しい元素の合成や、遺伝子の解明により、クローンや人工合成生物(キメラ)、遺伝子組み換え生物、人工臓器、人工蛋白質など、手当たり次第に合成されている。

生命倫理の確立されていない状況で、生命に人間の手を加えるのは大きな危険を伴う。 しかし、人間の好奇心はそんなアセスメントをしている余裕がなく、対策が後手後手に回っている。 人間の浅はかな知恵で自然を改造しようなど、奢りも甚だしい。 自然に対する畏怖の念を忘れると「過度の好奇心」は何時人間の欠陥に早変わりするか、慎重に構える必要がある。

全ての生物は進化の途上にあり、無欠陥の完成体ではない。

環境に影響されて常に変化しており、その変化の方向も常に正しいとは限らない。 方向を誤った生物はその内絶滅する。

人類の欠陥として挙げた人間の諸特性も、人類の世界制覇に伴って修正を余儀なくされる運命にある。 自然淘汰が働きにくいので、人間自体が自己修正していくしかない。 人類は、自分自身の歴史的な発展を生物学的に回顧し、今後如何に生きていけば絶滅しないで生き残れるかを、真剣に検討する時期に差し掛かっている。

それには現代にマッチした新しい人類の指針−「新時代の宗教」が必要なのではなかろうか。