DNA型鑑定と冤罪(2009年6月28日改訂)

  1. DNA型鑑定

    足利事件は19905月に栃木県足利市で当時4歳の幼稚園女児が殺害された事件である。 栃木県警は91年、遺留物のDNA鑑定を決め手に菅家利和さんを逮捕し、最高裁で無期懲役が確定した。 しかし、20095月、東京高裁の再審請求即時抗告審で行われたDNA再鑑定で型が一致しないと云う結果が出たことから、再審開始の決定を待たず刑の執行を停止・釈放された。 釈放された菅家さん(62)は17年半獄中に繋がれていた。 幼児の体に付着していた体液のDNAが菅家さんのそれと一致した為であった。 菅家さんは、取り調べを受けた刑事に怒鳴られ、訳も分からずに犯行を「自白」したと云う。 獄中で無罪を主張し、当時のDNA型鑑定結果に疑問を持った弁護団が97年から再鑑定を求め続けたが、上告審の最高裁も再審請求審の宇都宮地裁もそれを却下し再鑑定を実施しなかった。 しかし、再審請求の即時抗告審で東京高裁が再鑑定を認めたことで、漸く再鑑定にこぎつけた。 逮捕当時使われていた旧DNA鑑定には不完全性があり、弁護士が独自に実施した精度の高い現行のDNA鑑定では、証拠となったDNAとは異なる結果が出たとし、再鑑定を申請したのが効を奏した。 裁判所側には初期のDNA鑑定の正確さに対する知識が欠如していた。 再鑑定の申請から10年以上経って、検察側も旧鑑定法の不正確性にやっと気が付いた。 余りにもお粗末な、人権を蔑ろにした冤罪判決であった。 検察側や裁判所は土下座して謝るべきなのに、未だ深い反省も表明していない。 旧DNA鑑定法で有罪となった人は相当数服役して居り、この人たちを対象にしたDNA鑑定のやり直しが、今問題になっている。

    もう一つの事件は、満員電車内の痴漢行為で有罪判決された花田さんの逆転無罪が同じく東京高裁でなされた件である。 痴漢事件に対しては「客観的証拠が得にくく、慎重な判断が求められる」と指摘、防衛医大教授の逆転無罪を言い渡した最高裁判決に沿った判決がなされた。 この場合も一審で有罪となった時には行われなかった、花田さんの指先に附着した微物のDNA型鑑定が、2審では行われた。 鑑定結果の詳細については報じっれていないが、この鑑定が逆転無罪の決め手になったと云う。

  2. 犯行現場の遺留物

    用心深い犯人がきれいに指紋をふき取ったとしても、犯行現場には目に見えないような微小な遺留品が残っている。 犯人の落した髪の毛やふけ、汗、血痕、電話機に付着した唾液、触った所に着いていた皮膚の垢などに、犯人の細胞が一個でも見付かれば、其の細胞の中にある細胞核に格納されている染色体(DNAの一セット)から犯人の特定をすることができる。 地球上に住む個人のDNA配列は一卵性双生児を除いてすべて異なる。 従って、容疑者のDNAと犯行現場のDNA配列が一致すれば真犯人を特定できる。

  3. DNA型鑑定法

    実際にDNA型鑑定をするには大量の複製されたDNAが必要になる。 詳しい事は専門書に譲るが、PCR(Polymerase Chain Reaction)法を使うと、一片のDNA配列を数時間で10万個くらいにコピーして増やせる。DNAの複製酵素ポリメラーゼと複製の開始点となる数個から数十個の塩基配列を試料中に加え、温度を上下することによってDNA2本鎖を離したりくっ付けたりさせてネズミ算式に複製の連鎖反応を起こす。 簡単に言えば、まず温度を上げて2本鎖を分離する。 DNAの材料となる4種類の塩基分子を大量に入れた水溶液内で、次に温度を下げると周囲の塩基分子を取り込んで1本鎖が元の2本鎖に戻る。 これで2本鎖は2倍になる。温度を上下する度に2本が4本、4本が8本と倍々ゲームで増えていく。10万本の2本鎖を作るには、500.3=約170回温度サイクルを繰り返せばよい。

    こうして大量に複製したDNADNA切断酵素で切断すると同じ塩基配列の所で切断されて色々な長さのDNA断片が大量に生成される。 これをマイナスに帯電させた後、ゲル電気泳動法を使って、スタートラインからゴールラインまでゲル(寒天状のもの)の中を電気の力で移動させる。 そうすると、塩基配列の短いものは速く移動し、長いものは移動距離が短いので、同じDNA断片同志が局所的にそれぞれ異なった位置に点在したパターンが形成される。 このパターンは試料が異なると必ず異なった形となるので、DNAフィンガープリントと云う。 この方法を使うと、個人の識別、親子関係、血縁関係(例えば競走馬などの血統証明)、生物種の特定などが正確に判定できる。例えば、2つのパターンが完全に一致すれば同一人物のDNAだと断言できる。

    2009年6月28日付け読売新聞によれば、科学者が目を付けたのは、遺伝子の情報と関係の無い領域である、「GTATGC][AGAT]などの塩基パターンが繰り返される配列。 繰り返し回数の個人差が大きい。 その差を比べるのがDNA鑑定で、この原理は、18年前も今も変わらない。 足利事件の際警察庁科学警察研究所が用いたのは「MCT118法」だった。 1番染色体のMCT118と言う部位に現われる、16個の塩基配列の繰り返し回数を調べてDNA型を判定する方法である。 この方法で調べるのは1番染色体だけだが、血液型と組み合わせると、別の人の型と一致する確立は833人に1人とされた。 ところが研究が進み、DNA型のデータが増えるにつれ、一致する確立は185人に1人、161人に一人と変化して行った。 菅谷さんの型は、日本人に多い事が、次第に分かってきたのである。 現在主流のDNA鑑定は、比較的短い塩基配列の繰り返し(STR)の回数を比べるやり方。 MCT118法と違い、1対ではなく13対の染色体で15箇所ものSTRを調べる。 同じ型の人がいる確率はずっと小さく、誤判定は4兆7000万人に1人以下になる。 MCT118法が目視で型を判定するのに比べ、STRはレーザー光線で測定し、コンピュータで型判定する為、信頼性が高い。(配列の繰り返し回数の判定には上記のゲル電気泳動法が使われている。) 

    既に人ゲノム計画により、数年前、人間の30億個の全DNA配列はすべて解明された。 人間以外にもHIVの全DNA配列や生物研究用の実験生物の全DNA配列もどんどん解明されている。 これからの遺伝子工学の課題は、解明されたDNA配列内に存在する各遺伝子が、発現の段階でどの様なアルゴリズムで相互作用しているかを解明することである。 また、遺伝病の治療法、新薬の合成などにも、これらのゲノム情報は有効に活用されている。

    しかし、今回の免罪事件は、DNA型鑑定法を過信した事から生じた、取り返しのつかない人間の犯した過ちであった。 初期の科学的手法が常に正しいとは限らない事、技術は常に日進月歩の進歩を遂げている事を肝に銘じ、これを機に、謙虚に反省すべきである。