天才画家・葛飾北斎の生涯(0775日)

  1. 4つの顔を持つ男

    85歳の生涯で3万点にも上る膨大な絵を描いたこの男は、生涯で三十以上の雅号を名乗り、風景画家として富嶽三十六景を描き、スケッチ画家として森羅万象を写した北斎漫画を書き残し、美術教育者として絵の描き方に関する絵手本を多く物にし、それに肉筆画家としての最晩年を過ごした。 多彩な才能と顔を持つ才子だった。

    貧乏長屋の一室で、足をコタツに入って一心に絵を描いた晩年。 70歳を過ぎて描いた富嶽三十六景、歳を重ねるほど新しい才能を発揮し斬新な構図と手法で新境地を開いて行く、尽きない創造力の持ち主であった。

    北斎は江戸の葛飾に生まれ、小さい頃から絵を描くのが得意だった。 浮世絵師に弟子入りし、最初は    と名乗って役者絵などを描いていた。また、宝井馬琴と組んで絵草子の挿絵を描いていた時代もある。 

  2. 73歳で開眼

    しかし、本人が述懐している様に、73歳にして禽獣虫魚の骨格、草木の出生を悟り、八十歳にしてますます進歩し、九十歳にして奥義を極め、百歳にして神技を得るの心意気で晩年を過ごした。 

    80歳で今度は肉筆画を始め、信州の小布施まで240キロの山道を通って、地元の豪農で絵師の高井鴻山のアトリエで新境地に挑んだ。 当地の岩松院の天井には、北斎が絵師達を指導して描かせた「八方睨み鳳凰の図」が今も残っている。 当院には北斎の描いた原画が保存されており、その鮮やかな色使いが見て取れる。

    北斎は放蕩者の孫を持ち、始終借金に追われていたが、老いても健康で人一倍ユーモアに満ち、出世する事よりも気侭に絵を描く生活に没頭した。 

    「画狂老人」と称し、北斎よりも「屁臭い」と自称する事を好んだ。 北斎は「あほ臭い」や「野暮臭い」から付けた雅号だと言われている。

    北斎は浮世絵師として線画を描くだけでなく、刷り師に対し細かい色使いまで指示した。

    出来るだけ薄い色を何重にも重ねて刷る様に指示した当時の文書が残っている。

    また、北斎は絵の描き方を指導する絵手本を数多く残し、その筆使いは西欧のジャポニズムに大きな影響を与えた。 その逆に西欧の遠近法を自身の絵に取り入れた浮世絵も残っている。

    老いてますます盛んな生涯を送った葛飾北斎は、高齢化社会に生きる我々老人の鑑であり、その足跡を辿る十数枚の絵をここに添付して参考に供したい。