高利貸のいない社会(2009年7月9日)

 

  1. 利子を禁じるイスラム教

    本来イスラムの銀行は利子を取らない。 イスラムの教えでは、人間が何の努力もしないで自分の所有するお金を増やす行為を禁じている。 勿論、マネーゲームでお金を増やす事も禁じている。 イスラムの銀行では、預金者から与かったお金を企業に投資し、企業が利潤を得た場合は、それを預金者、銀行、企業で、前もって決められた比率で分配する。 利潤が挙がらず、損失が出た場合はその損失を各自分担する。

    彼らが言う投資とは、マネーゲームをする金融業者などに無差別に融資する事ではなく、投機的な融資を回避し、企業活動など人間が労働により付加価値をつける部門にのみ融資する行為を言う。

    日本では、法外な利子を取る闇金融は禁止されているが、いわゆるサラ金は法律的に認可されており、銀行預金の10倍以上の利子を稼ぐあくどい商売が放置されている。 返済の事を考えてから高利の金を借りるように注意を喚起し、いかにも親切を装っているが、金持ちがますます金を蓄え、貧乏人は永久にその呪縛から抜け出せない仕組みを法律が認知しているのである。

    イスラムの社会にはこの様な高利貸は存在しない。 このホームページの「最近感じる事(08-09)」その一に掲載している「世襲制度の欠陥」にも書いたが、パキスタンで創設され今世界中に広まっている「マイクロ・クレジット」の制度は、貧乏人に冷淡な資本主義の欠陥を見事に修正し、世界の貧乏人が長年苦しめられた「貧乏」から抜け出る為、無担保で小口の融資をする制度である。 多くの貧乏人がその恩恵に浴している。 たぶん、イスラム教の教えから発想したものであろう。

    イスラム教は、自然界にあるものは全て神の所有に帰すとし、人間はそれを借りて生活していると考える。 土地も地下に眠る石油も神のものであり、人間は平等にその恩恵に浴すべきと説く。 また、金持ちは貧乏人に喜捨をする義務があるとし、その収入の何割かの寄付を義務付けている。 貧富の差を社会悪と見做し、金持ちにそれを是正する義務を課しているのである。ラマダーンで断食をするのも、貧乏人の苦しみを万人が体験し、貧富の差という社会の歪を解消する様、富める者に貧者への喜捨を促す為に行う苦行なのである。

    現在の世界を大きく二分するのは、キリスト教文化圏とイスラム教文化圏である。 キリスト教文化圏では金融資本主義が貪欲な牙を剥き、世界の経済を破壊してしまった。 また石油利権を巡ってイラク戦争を起こし、イスラム社会を破壊し、膨大な数の市民を殺戮した。

    キリスト教は「汝の隣人を愛せよ」と教えるが、民主主義の名の下に、自由と平等を唱えながら、実は貧富の差を広げる社会構造を世界に広めようとしている。 キリスト教の教義は、貧富の差を拡大する経済の自由化を推進すべきと、本当に説いているのだろうか。 両宗教を比較した場合、これからの人類の進むべき道はキリスト教ではなくイスラムの教えの中に示唆されている様に思えてならない。

  2. サラ金と言う落し穴

    まじめに働いていた人がサラ金に手を出して破滅するケースは後を絶たない。 それでも、サラ金の高利を下げ様と云う声は誰からも発せられない。 日銀は預金金利をほとんど零にしてバブル後の不良債権に苦しむ銀行の救済に汲々としている。 その銀行は安い金利で預かった我々の預金を、子会社のサラ金を通して高利で貸し付け暴利を貪っている。ちなみに、高利貸の事を英語では Loan Sharkと言う。

    サラ金は企業献金に励み、政治家もこのアクドイ商売を規制する勇気を持たない。 誰が見ても納得できない金持ち優遇制度が罷り通っている。 アメリカ金融資本の強欲なマネーゲームにより、世界中に不景気の波が荒れ狂っている。 生活に破たんして自暴自棄になり、無差別殺人に走る人が後を絶たない。 一時給付金など何の足しにもならない。

    そんな金があったら、サラ金を廃止し、公的な低金利バンクを作ってサラ金に苦しんでいる人達を救済してはどうか。 北朝鮮の脅しに怯えた振りをして、数十億もするミサイル仰撃システムを買う必要は無い。 そんなものに我々の納めた税金を使って良いと思っている人はいない。 凡庸な政治家ほど国家のメンツを重んじたがる。 国防の為と云えば国民が反対しない事と知っているからである。 自分達の行為が、単にアメリカの死の商人達を喜ばせている事に、どうして気がつかないのであろうか。

    サラ金の利子が高いのは、利子を上げるほど返済率が悪くなると云う悪循環の結果に他ならない。 嘘だと思うなら、一度、公的機関が低金利のサラ金を試行してみたらどうか。 利子を下げるほど返済率は向上し、低利子サラ金事業が成立する事が分かるだろう。 悪い方に振れた振り子をもう一方の安定点に戻す逆転の発想が必要なのである。