私が子供だった頃(2008/12/03)

 

私が生れたのは1933年(昭和8年)330日である。 親から聞いた話によれば、なかなか子供が出来なかったので瀬戸内海の小さな島からもらい子する事が決まった途端に私を宿したそうだ。 

1932年には傀儡国家「満州国」の建国が宣言され、同年5月には515事件が起き犬養首相が暗殺された。1933年には国際連盟から満州撤退を勧告された日本は連盟を脱退した。 プロレタリア作家小林多喜二が特高に虐殺された。 世相は軍国主義へと猛進していた。

1.幼児期

子供の頃の鮮明な記憶は、煌々と電気の付いた部屋で柱に身体を括り付けられ泣きじゃくっているシーンから、いつも始まる。 私は生れ付き果物が嫌いだった。 母親が心配して二十世紀梨を食べさせようとし、頑強にそれを拒んだので、手を焼いた母親が家出すると言って出て行く真似をした。 梨は食べたくないし、母親がいなくなるのも困るので唯がむしゃらに泣いていた記憶がある。 最後には親も諦めて、私は梨を食わずに済んだが、それ以来就職して社会に出るまで果物は一切食べなかった。

(写真説明)

小さい頃の写真は数枚しか無いが、戦災で焼け残ったアルバムが一冊あり、その中に私の小さい頃の写真は数枚しかない。

この写真は呉市3条通りの生家の裏木戸を入った所で、多分歩き始めた2歳頃に写真屋が撮ったものだと思う。 これより小さい頃の写真は、生れた直後の一枚しかない。

それ以外の幼児期の記憶は余り無いが、呉市の灰が峰(海抜600m)に登った記憶がある。 親父が着物の帯を私の腰に巻き、それで前から引っ張って貰っている光景が浮かぶ。

2.小中学期(終戦まで)

小学校は家の直ぐ傍にあったが、校舎が2箇所に分かれており、小学3年生までは「下の学校」に、4年生からは山の上の「上の学校」に数百段の石段を登って通った。

近所には同級生が数人おり、良く「下の学校」の校庭でカケッコをして遊んだ。 ボール遊びもしたが、統制でゴムボールの製造が禁止され、コンニャクで作ったボールで遊んだ記憶がある。 

昭和16年に太平洋戦争が始まり、終戦の年には呉第一中学校に入学した。

小学校6年生の時、少年飛行兵に憧れ、鉄棒の回転連続100回や倒立歩き100歩をして体を鍛え少年飛行兵の受験に広島まで行ったが、聴力で落とされた。 幼児の頃、中耳炎を患い、聴力が落ちていた。 体も痩せていたが体重や身長は検査基準をクリアしていた。

同級生で合格した人がいたが、すぐ終戦を迎えたので飛行機に乗る事も無かったと言っていた。 終戦の

12年前から、軍需工場のあった呉市はアメリカの艦載機の空襲を頻繁に受け、家の近くの丘から艦載機を仰撃した高射砲の破片が家の二階の屋根を直撃し、1階の畳に食い込んでいたのを見た。 空襲警報が発令されると、1階の畳を跳ね上げて、床下に掘った防空壕に避難していた。

しかし、昭和20年7月某日夜中、B29による焼夷弾爆撃に遭い、私は唯一人で近くの崖に掘ってあった防空壕に避難した。 母親や2人の妹たちは疎開で呉市の灰が峰を越えた所にある郷原村にいた。 夜中に起きて見ると、窓ガラスが真っ赤に映え、既に焼夷弾爆撃が市の中央部で火災を発生させていた。 防空壕は人で一杯で親父の下駄を履いていた私は生き苦しいので防空壕を出ようともがいたが、下駄が大き過ぎて動けなかった。

仕方なく裸足で脱出し、通い慣れた「上の学校」へ行く長い石段の道を登って行った。

既に火災は呉市中央部に蔓延しており、その照り返しで雲間を行くB29からの焼夷弾の落下が花火を見る様に綺麗に見えた。 「上の学校」は呉市の西側の岡の上にあり、焼夷弾の被害は免れた。 夜が明けて家に帰って見ると、最後の焼夷弾で焼かれて竈と井戸と鉄製の風呂釜が残っていた。 大豆を入れた一斗缶が焼け残って燻っていた。 舗装された道路には、電話ケーブルの鉛が融け落ちて銀色に光っていたのを思い出す。

親父は私が焼け死んだと心配していたらしく、生き残っていたので安心した。 最後まで家にいた親父の話では、焼夷弾が3発家に命中し、それらは消し止めたが、周りの家が焼けて我が家も類焼したらしい。あと一丁先からは無事に家は焼け残っていた。遠くに我が母校「呉一中」が焼け落ちているのが見えた。

昭和20年8月6日午前8時15分、周りがピカッと光ったその瞬間、私は一人で呉市二河川の橋の欄干に竹の皮に盛った朝食の御握りを置き、「呉一中」の焼け残った校庭で朝礼が行われているのを握り飯をぱく付きながら眺めていた。 その日は夏休みの出校日で朝5時半に疎開先の郷原村の家(親戚に農家の牛小屋を借りていた)を出て、10キロの山道を歩き、朝礼に遅れたと思いながら空腹を満たしていた。それが広島の原爆投下の瞬間だった事は後で知った。 呉市は広島市と大きな山で遮られているので、“ピカッ”だけで“ドン”は聞こえなかった。

8月15日には学校にいて玉音放送を聞いたがラジオの音が悪く、良く聞き取れなかった。それでも戦争が終わったと分かり、夏の日に焼け付く様な焼け跡の舗装道路を一人で当て所なく歩いていた光景を思い出す。

3.中学・高校期(終戦後)

米軍が駐留して来ると略奪があると恐れ、郷原村の山奥に避難小屋を急造して備えたが、村までは駐留軍は来なかった。

しかし、9月初め猛烈な台風が村を襲い、朝起きて外を見ると村中が水没して、大きな湖になっていた。村の小川に沿って建っていた農家は全て流出し、20数名の死者が出た。 学校に行こうにも山道は土砂崩れ、川に掛かった橋は全て流出し完全に孤立してどうする事も出来なかった。 一ヶ月近く学校を休んだ後、仮橋が出来たので土石流でずたずたに切られた国道を2時間歩いて広と言う町まで行き、そこから市電で呉一中まで通った。 毎日4時間歩く生活が、それから2年位続いた。 学校の校舎は仮建築で、窓はガラスではなく黄色い油紙で覆われていた。 その頃、「子供の科学」か何かを見て、鉱石ラジオの組み立てをし、学校の校庭でスイッチを入れたら、簡単に受信できた。 これがラジオやオーディオに興味を持つ切っ掛けとなった。 旧制中学は3年生から高校となり、学区制が敷かれたので広町にある“広高校(旧三中)に強制編入された。寸断された道路もやっと復旧し、村から広町までの国道に木炭バスが走り始めたが、私は高校卒業まで往復4時間の道を徒歩で通学していた。

親父は男3人女4人の7人兄弟の3男坊だった。 農業は長男が継ぎ、他の兄弟は村を出た。 幸い呉市には海軍の軍需工場があり、戦艦大和などもそこで造られた。 親父は戦艦の大砲の弾を作る「火工部」で火薬関係の仕事をしていた。 終戦後は郷里に帰り、長男に預けていた親父名義の田畑や山を譲り受けて百姓を始めた。 中学生だった私も肥桶を天秤棒で前後に担いで、畑まで人糞を撒きに行った。 また休みの日には雑木林を開墾して田畑を増やす為に汗をかいた。食糧難の時代だったが、僅かばかりの田んぼで稲を育て自給自足の生活が出来たのはせめてもの救いだった。

4.大学期

学校の成績は何時も上位にいたが、出戻りの百姓で金が無かったので、家から通える地元の広島大学工学部電気工学科に進学した。 電気工学科を選んだのは、中学の頃鉱石ラジオの受信に成功し無線通信に興味を持ったからである。 最初の2年間は広町から広島まで汽車で通学していたが3年から学生寮に寄宿した。 食糧難時代がまだ続き、寮の食事は盛り飯1杯で何時も空腹を味わっていた。 元兵舎だった寮は木造の2階建てで、各部屋に2段ベッドが6組あったが、ある夜寝タバコで火事を起こし全焼した。 同じ部屋にいた8名はその為ばらばらになったが、私と一緒に電気工学科にいた友達の2人は工学部の傍の鉄筋の新学生寮に転居した。 思い出すのは、夜寝る前に毎夜通った「焼きうどん屋」の事くらいである。

昭和30年就職難の時代に卒業を迎え、私はNHKNECを受験した。 複数合格したものは1つに絞り、その後の就職活動は禁止された。 私と一緒にNHKを受けた同輩は不合格となり、入水自殺した。 私はNHKも合格したが辞退して、内定したNECに行く事にし、上京を夢見ながら残された時間を遊びに耽っていた。 ところが、昭和30年1月になって、内定取り消しの電報が来た。 理由を聞くと、内定後の考信所調査で私が全学連の仙台大会に出席した事が判明し、共産党のシンパである事が暴露された為だと言われた。 そんな心当たりの無い私は呆然とするだけで、既に求人は無く1年を棒に振る事になった。 最近の不景気で内定取り消しが問題化し、関係者が救援に乗り出しているが、私達の時代には大学側も援護してくれず泣き寝入りするしかなかった。 後で分かったが、私のいた学生寮には全学連の委員やシンパが沢山おり、大会出席で私の名前を偽名に使った奴がいた様だった。

昭和31年、一年間アルバイトなどで食い繋いだ後、NTTと大阪毎日新聞を受験し、合格した。 私は新聞社に行きたかったが、教授にNTTを強く押され、結局NTTに就職する事となった。 布団袋一つ持って私は上京し、吉祥寺のNTT寮で社会人としての第一歩を切った。