寛容過ぎる日本社会(2011年6月18日)

「想定外だった」とは何と云う便利な責任回避の言葉だろうか。
地震の大きさ−想定外、津波の大きさ−想定外、原発事故−想定外、今回の災害は想定外ではなく人災だと、何故素直に自分達の非を認めないのか。
そこには、日本社会に昔から根付く「甘えの構造」「護送船団方式」「皆で渡れば怖くない式の責任分散」「権限の縦割り組織」と云った悪しき伝統が内在している。
まず気象庁の後追い主義、不十分な対策だと自覚していながら、後になって何時も、あの時こうしてれば良かったと反省する。 2011年6月18日の読売新聞によれば、気象庁の「気象庁マグニチュード」は過去の地震をもとに作られた計算式に、今起きた地震データーをあてはめる。 即時に算出できる長所はあるが、過去に例の少ないM8超の地震については、マグニチュードが正確に出せない。それを超える地震でも数値は「8」程度で頭打ちになってしまう。もともと巨大地震には使えない方式だった。
また津波の観測データを警報に生かすシステムも不十分だった。 現在は、沖合に浮かぶGPS波浪計で実測した海面の上下変動を、予測の修正に使っている。 今回も最初の予測「3−6m」を「10m以上」に引き上げる際の根拠になった。 しかし、GPS波浪計が設置できるのは沿岸の陸上局に電波が届く沖合20キロが限度だった。 そこで期待されるのが海底水圧計である。海面の高さを水圧で測り有線でデータを送る装置で、現在海洋開発機構などが沖合200キロ位までの範囲に設置している。 何故気象庁はこれらのデータを活用しなかったのか。 官庁間の縄張り意識以外の何物でもない。 要するに、これらの事は「想定外」ではなく、災害を甘く見て想定しうる充分な対策を実現しなかった「人災」なのである。

自民党は今回の原爆事故に対し一片の責任も感じていない。 自分達が推し進めた原発推進政策が安全管理を万全にしなかったと云う事実を素直に反省し、政府の行う災害対策に全面的に協力すべきなのに、被災者への対策が遅れていると上げ足ばかり取って、醜い政権争いに利用している。 機能しない原子力安全委員会を作ったのも、電力会社からの政治献金欲しさに原子力発電を推進したのもすべて自民党政権が犯した過ちである。貧富の差を更に広げ、犯罪の多い日本に変えたのは小泉元首相だが、彼の責任を追及する人もいない。  日本人には政府が過去に犯した責任を追及すると云う政治感覚が欠如している。

今回の災害に続いて発生する事が予測されている関東・東海などの地震に関し、対策本部は「2万数千人の死者が出る」と予測している。 しかし、その対策は個人ですべきと云う建前を崩さず、何の対策も講じていない。 木造家屋の耐震度の無料検査でお茶を濁し、高価な耐震補強が出来なくて困ってる人に金を振り向けようとしない。 自衛隊の軍事費のほんの一部でも振り向ければ尊い人命は救えると云うのに、見て見ぬふりをしている。 如何にも災害対策に力を入れていると宣伝する為、地震発生時の帰宅問題など、枝葉末節に無駄な金を注ぎ込んでいる。 お役所には個人の人命に税金を使う事はご法度だと云う考え方が伝統的にある。 この際過去の伝統に拘らず「2万数千人」の命を救う為にはどうしたら良いか真剣に考えるべきである。
耐震補強に補助金を出しているから自分達の責任は果たしているとの云い訳は通らない。
こんな人を馬鹿にした様なニュースを聞いても誰も行政に怒りをぶつける日本人はいない。 
日本人は政府に対し余りにも寛容で、騙され続けても、酷い目に遭わされても、次の選挙で反対票を投じようとしない極めて従順な民族である。自然災害は人間の力では克服できないと達観している。 今回の災害から得た教訓を生かし、災害国日本を安全な国にするには、発想の転換が必要である。 今度こそ、我々は自然と共存する新しい道を選択しなければならない。