性道徳(07/5/14)

 

  1. 日本人の性道徳

    人間には性道徳(性規制)が必要である。 それは、人間が常に発情出来る状態にあり、自由に振舞わせると社会秩序が成り立たなくなるからである。

    西欧と日本では日本の方が規制が厳しい。 日本人は奥ゆかしいので、西欧人の様に公衆に面前でキスをしたり抱き合ったりしない。 万葉時代の日本には恋愛感情を赤裸々に読み込んだ和歌が多い。 愛情の表現が今よりも自由で、直接的であった。 日頃の男女の交際もかなり自由であったと言われている。 昔は「通い婚」と言って男性が妻の家に通い、普段は別居していた。 戦国時代を経て、300年の平和な時代が続いた江戸時代になると、儒教の教えの影響を受けて、性道徳は厳しくなった。「男女3歳にして席を同じうせず」とされた。 しかし、吉原などの遊郭は公認され、規制緩和地帯を作って性の自由を承認していた。 西洋人も舌を巻く様な「春画」も多く出回った。  武士や商人で金のあるものが正妻と複数の妾を持つことは公認されていた。

    敗戦後の日本は次第にアメリカナイズされ、昭和32年には公娼制度が廃止され、学校では男女共学制が施行され、学生達は自由恋愛を楽しみ、結婚も見合いより恋愛結婚が主流となって来た。 また、一夫一婦制が建前とされた。 しかし、儒教の影響は未だに強く尾を引いている。

     

  2. 外国人の性道徳

    これに対し、欧米のキリスト教社会ではもともと性規制は緩かったが、一夫一婦制を建前とし、別の人が好きになった時は離婚してその人と再婚すると言う柔軟な方法を取った。 ただし、カソリックは離婚を認めない事を建前とした。

    イスラム教社会は4人まで妻を持つ事を認め、一つ屋根の下で皆で諍いも無く共同生活を送っていた。 しかし、男女の自由な交際は認められず、異教徒との結婚は禁止された。 だが現在は、イスラム社会でも一夫一婦制をとっている所が多い。性に関する規制も、日本とは別の意味で厳しい。

    性道徳は文明の進歩とともに変遷して行く。 現在、最も自由な性道徳の国は北欧であろう。 次がアメリカ、西欧と続く。 日本は残念ながら未だ幼稚な段階にある。

    例えば、映画の性描写を見ても、性の先進国では自然な裸体に「映倫規制」でぼかしを入れたり、モザイクを入れたりしない。 アダルト・ビデオも同様である。

     

  3. 性道徳のあるべき姿

    性を自然なものとして素直に受け入れるか、隠すべきものとして隠すかで、結果が大きく異なる。 私は、自然なものをそのまま受け入れる自然主義に賛成である。 「チャタレー婦人の恋人」は猥褻文書ではなく、れっきとした「文学作品」なのである。  無理をして隠すから、その反動で、余計な興味を掻き立てる。 携帯でスカートの中を隠し取りする輩も無理な規制の犠牲者である。 馬鹿な規制をするから、凡人はこんな行為に走る。 赤線(昔のような人身売買ではないオープンシステム)を復活すれば、頻発する少女の性犯罪は減少する可能性すらある。

    性行為とは生物がするべき最も神聖な行為である。 それが人間に関しては、何か汚らわしいものと受け取られがちなのは、人間が常に漠然とした発情状態にある事に起因している。 動物の性行為は必ず妊娠と言う結果を伴うから雌雄どちらも真剣になるが、人間はなまじっか知能が発達していて、しかも常に発情し、避妊の方法まで知っているから真剣さが足らない。 遊びとしての性を楽しむ悪癖がある。 だから性道徳による規制が必要になる。 しかし、性を恥ずかしいもの、汚らわしいものとして、性規制をしてはいけない。 飽くまでも神聖なものとして扱い、性を弄ぶ人間の弱点を知らしめ、責任を持って健康な性を謳歌する態度を身に付ける様に指導する、そう言った性道徳が必要である。

    私は、ダーウインの進化論を性道徳の基礎にすべきだと考えている。 人間を始め、あらゆる生物の生命は、30数億年前の一つの生命体から分化し進化・多様化して現在に至っている。 限られた寿命を持つ各生命個体の生きる目的は連綿と続いてきた生命の火を絶やさない事で、性行為は30数億年生き続けた生命の火を次世代にリレーする為の最も神聖な行為なのである。 人間以外の生物は本能的にその事を認識している。 知能の発達した人間だけが神聖な性を弄ぶ性癖がある。 小説家は恋愛小説を書く場合、微妙な心理の描写には現を抜かすが、性行為の神聖な事には触れようとしない。 人間を描写するにはまず、生物学的に人間を研究すべきである事を忘れている。 医者兼小説家の渡辺淳一が書く恋愛小説は一味違っている。それは医者の頭で生物学的に人間を理解しているからである。 こう言った観点に立つと、性を恥ずべきものとして規制している日本のやり方は間違っている。

    しかし、今の日本が西欧並みのレベルに達するには、古い考えの人達が死に絶えるまで、あと十年以上待たされるだろう。 だから、賢い日本人は、先回りして、グローバル化されたインターネットを通して自然描写の性映像を自由に入手している。 その実態に気付いたら、「映倫規制」に固執する人々も、その固い頭で、「性規制」をグローバル化するしかないと考え直すのではなかろうか。 

    頑なに現状を維持するか、グローバル化の波に呑み込まれて規制を緩和するか、いずれにしても、一部のお堅い日本人が幼稚な考えを捨てるのはそんなに遠い将来ではない、事だけは確かだろう。