桂 戴作先生を偲んで

             

 
日本心身医学会名誉会員
名古屋学芸大学ヒューマンケア学部
末松弘行
 日本心身医学会名誉会員、日本心療内科学会名誉理事長であられた桂戴作先生は、平成19年6月29日早朝に急逝された。その前日まで心身症の患者の診療をされ、その5日前には、日本心療内科学会がスタートさせた専門医の認定試験を私どもと同等に受験番号1番で受験されたばかりであった。昨年、数え年でということで米寿の祝賀会がもたれた。しかし、先生は88歳とはとても思えないお元気さであった。ほぽ毎日のように診療され、後進の指導をされ、学会 活動をされ、生涯現役という感じであった。ことに、心身医学(心療内科)の発展については、なみなみならぬ情熱をもたれ、尽力してくださった。パイオニアの故池見酉次郎先生には心身医学会の発足(昭和35年、発足当時は日本精神身体医学会)より前の昭和29年から師事されていて、池見先生の有名な消化器病学会での宿題報告のお手伝いをされた。やがて、九州大学心療内科が開設され、その10周年記念会に招かれた先生は、あまりに何でもそろっているのを目にされた。そこで、先生は東京大学の故石川中先生らと相談され、関東ではいくつかの施設が相助け、相補っていこうということで、関東大学病院心療内科連絡会(関心連)を組織された。これは,今日まで継続している。そして、昭和54年に日本大学に心療内科を開設された。これは、九州大学、東京大学、東北大学に続いて第4番目で、私学では第1番目であった。日本心身医学会は近く設立50周年を迎えようとしている。その歴史を振り返ってみると、いくつもの画期的な出来事があったが、そのいずれにも桂先生には重要な役割を演じていただいた。昭和52年には、第4回国際心身医学会を日本が主催したが、その際は財政面で活動してくださった。また、昭和59隼には第1回国際心身医学会アジア部会が開かれたが、その時には事務局長を務められた。その後にも国際心身医学会には、奥様ご同伴でよく参加された。平成2年には、「心身医学療法」が保険で認可されたが、桂先生はその以前から心身医療の保険関係の改善のために力を尽くされていた。学会の理事は本来70歳が定年であるが、「余人をもって替えがたし」というわけで、認可時には定年を超えておられたのに保険担当の特別委員として理事会に参画していただいていた。   また、ちょうど筆者が理事長を務めさせていただいて、日本心身医学会が社団法人設立を目指していた時、その第一歩は「事務所の独立」であったが、桂先生のご配慮で直ちに実現した。そんな縁の下の力持ちのような、必要な時に力になってくれる存在でもあった。昭和63年に第29回日本心身医学会を主催されたが、関連の学会をみても、多くの学会に所属され、その役員を務められ、会長をされた。ことに日本交流分析学会では長く理事長を務められ、学会賞は先生のお名前を冠する「桂賞」である。先生のご專門は気管支喘息など呼吸器心身症で、呼吸器心身症研究会の理事長もされた。これと、循環器、消化器などの心身症研究会を母体として、平成8年に日本心療内科学会をつくられ、理事長として、第1回総会を主催された。心身医学関連の心理系と医学系の諸学会の連合体としての日本心理医療諸学会連合(心医連)が昭和63年に結成された時にも、その第1回大会の会長をされた。また、医療系の学生たちに心身医学を学んでもらおうとして立ち上げられた「全人的医療を考える会」の第1回ワークショップのために、日本大学の軽井沢の施設を用意してくださった。このように、桂先生はいろいろな組織の設立時の困難なお膳立てを整えるお役目をいつも引き受けてくださった。桂先生はそういう方であった。桂先生は、また、あらゆる人に最善をもって対応され、交流分析の言葉を使わせてもらうなら、ディスカウントされない方であった。後進のめんどうもよくみられた。そんな先生をお慕いして、全国から多士済々、百余名の方々が集まって、村上正人先生や鴨下一郎先生を中心にして、毎年「桂門会」がもたれていた。桂先生がつねづね言われていたように、日本心身医学会とその臨床学会である日本心療内科学会の発展は、いまだ十分とはいえない状況である。先生は、生涯その発展を望み続けられていたように感じていた。そのご遺志に沿って私どもも努力したい。桂先生もまさに「千の風になって」見守ってくださるであろう。先生に感謝するとともに、ご冥福を心からお祈り申し上げる。

"1.47No.10.20071心身医

 

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