柘植郷の遺跡
宗清城址
日置神社
外敵防禦に神仏の加護を得んとしたことは、既に戦国時代以前にも各地にあったことであるが ここにも 宗清一党の守護神として城址の近くに日置神社が祀られている。大昔は一族 軒伝いに参詣することが出来たという話である。『三国地誌』には
「三社明神(下柘植村) 日置大明神(愛田村)などでは明神 天王 諏訪の三座を祀る。弥平兵衛宗清これを造建す。また二っの神石あり。その一つは『金剛石』と称し 社の前にあり、他の一つは『神度石』と称して 里中にあり」と記してある。また下柘植の神社に就いては「按慶長の頃、愛田より勧請す」とあるので、愛田村の方が古いことが判る。だとすれば、宗清造建すというのは、愛田村の方で、従って宗清が先づ住みついたのは愛田であったということがいよいよ有力となってくる。この愛田の神社は明治四十一年(1908) 下柘植の日置神社へ合祀されたので、以前の場所には最早 何もない。
この神社の春祭(四月十日)には、無形文化財 冠鼓踊(かんこおどり)というのがあり、毎年 愛田と下柘植から交替でこの踊を奉納していたが、昨今 経済上の理由で中止になっているのは惜しまれる。
梅ケ枝の手水鉢
宗清の作と伝えられる梅ケ枝の手水鉢が左仲屋敷の一隅にある。三代将軍徳川家光の時、この手水鉢 が下柘植から幕府に献上され、家光公はこの鉢を殊の外珍重されたが、不思議にも毎夜 子供の泣声に似た怪音を発し、時の碩学者阿部宗全ですらその理由が判らず「この鉢は、故郷の柘植郷を慕いて泣くものならん。この侭将軍家に置かれていたなら何時の日か不吉を招くことに…」と、柘植の里へ送り返されたという因縁つきの夜泣石鉢で 高さ三尺(90cm) 巾二尺(60cm) その形容は頗る優美なものである。
西光寺
法緑山 西光寺は宗清の菩提寺であったが、天正七年(1579) 織田勢侵攻(伊賀之乱)の際、兵火 で焼失し、墓も破壊散乱されてしまったということで、現在 下柘植にある浄土宗 西光寺には宗清一族である山川家の子孫に当たる柘植家や西川家の墓がある。広い墓域には人の背丈程もある院殿居士つきの立派な古碑が凵の字型に立竝んでいる様子は、いかにもその昔 豪族として この地方に君臨していた柘植一族らの繁栄ぶりを偲ばせるものがある。
福地城址
上柘植の中央 山出部落に この福地城址がある。 拝野の里から東へ約五丁(約500m) 柘植川の 南に当たる付近である。ここは宗清の次男福地伊予守宗隆の居城のあったところで、宗清一党の威勢を誇示していたが、かの天正七年(1579)の伊賀之乱で、織田勢の手に掛かり落城した。ここは下柘植の城址と違い、石垣の一部や柱の基礎などが残っていて、城砦の跡であることが歴然としている。中央の盆地には、周囲の土堤を築くために掘り下げた跡があり、その広さは二段二畝(約5000m2)もある。尚 こゝは今『芭蕉公園』と呼ばれていて『松尾芭蕉誕生地』の記念碑が建っている。