柘植一族 仁木大将を討つ

昔 伊賀国に領主なきため、大永年間(1521-1528)柘植総左衛門宗家の時 将軍 源義稙(足利義稙)は仁木兵部少輔をして伊賀国の守護職に任じた。しかし柘植一族はその守護職に従わず、屡々(しばしば)反抗の戦を挑み、遂に仁木兵部を討ち滅ぼしてしまった。その後仁木兵部の子らは流浪の上 家臣ら相集い再び柘植一党に報復挑戦してきた。宗家ら良くこれを迎え撃ったが宗家は遠州原野屋に於いて卒した『柘植家譜』。
このことに就いて下柘植に現存する『由緒書』には、次ぎのように記されてる。
「国屋形(国守護)仁木大将 柘植侍を攻めしことあり。 柘植惣武士 徳井という者、屋敷に取籠め伊賀総武士徳井屋敷に推寄攻戦、寄手大将国屋形討死 寄手敗軍、此折下柘植の百姓田中という者 屋形の死骸を踏付け甲胄を剥取り屋形死骸を土足に懸けし為 足痺となりしと申伝う。」
今も下柘植の田の間に松樹と塚が残っており『屋形塚』と称している。