天正の伊賀之乱 柘植氏本拠潰滅

 天正七年(1579) 織田信長の次男信雄は伊賀国に攻め入ったが成果挙がらず、更に同九年(1581)九月、信長自身 圧倒的な大軍を率いて伊賀の四方から進攻、服部党 柘植党など国衆の一週間にわたる激しい防戦も空しく織田勢の蹂躙するところとなった。服部衆 柘植衆らは他国に流亡、神社仏閣なども焼払われた。『多聞院日記』天正九年の項には次ぎの記録がある。

【三日】――従信長被仰付伊賀ヘ出勢、甲賀口ハ堀久太郎殿大将ニテ小姓衆 江州ノ衆 勢州口ヨリハ本所並滝川、南伊賀ヘハ宇多郡衆 西ヨリハ和州ノ衆則筒順一手ニ自身ハ畑口ヘ。 福住大将ニテ南方ノ衆召具黒田□ケヲ名張ヘ打入ル。後夜ヨリ立テ以上一万余人数ナリ云々。心替衆引入間無程可有落居云々。佛神崇重ノ国聖教数多堂社結構ノ処、此時及破滅ノ段 時刻到来迄也。但 落居如何。
【四日】――伊賀ノ様裏返衆少々在之過半落居。箸尾衆少々損了云々国中大焼ケフリ見了云。
【十七日】―教浄先陣ヨリ帰リ伊賀一圓落居、合戦モナク曖ニテ諸城ヲ渡テ破城云々。南ニ二三ケ所残ルト云フ。五百年モ乱不行国也云々。霊仏以下聖教数多堂塔悉ク破滅。時刻到来上下ノ悲歎哀ナル事也。

また貞享年代(1684-1688)の著作『伊乱記』に見られる上柘植 焼打ちの一節

先陣滝川は早上柘植の馬宿に火をかけたりと見え、猛火東西に飛び散り雲や霞と焼きたてられ、七卿に乱入し神社仏閣民屋等唯一時に焼き払う折柄、柘植の一族棟梁の者共他行して手に合わず、残の者輩柏野村に楯篭る。その人々には富田 勝長 蒲田 中野 浜地 平岡 久田党、松尾氏 是皆 上柘植の住なり云々。

織田侵攻により柘植の本拠は潰滅した。しかし柘植一族は こゝで全く滅びたのではない。追う者 追われる者 栄枯盛衰の転変も人類の進化していく過渡期の一現象に過ぎない。伊賀之乱を一転期として、柘植一族は地方のボス的な性格から脱皮し、新しい天地を開拓した。
かつて徳川家康が伊賀国通過の折、宿を貸した縁故によって柘植一族は天下統一を目指す家康の大事業に参画することとなった。『柘植家譜』に左の記述が載っている。

天正九年(1581) 柘植宗能 同清廣 三州に至り、家康公に拝謁して曰く「伊賀国の群兵は僉曰う、伊賀国を公に献じ従い奉るべし、何ぞ信長に従わんや。伏して願わくば御書を伊賀の群兵に賜るべし。然らずんば群兵等疑いあるべし」と。是に於いて公曰く「我 信長と親交甚だ厚し、書を伊賀群兵等に遣すは不可也。只 信長に属し本領を守るべし。清廣等は我に属して家を三州に移すべし」と。是によりて宗能 清廣 伊賀国に帰り 家康公の旨を群兵等に告ぐ、然れども国中の勇士 信長に属せず。同年 信長 軍士を遣わして伊賀国の群兵を撃殺す。其後 清廣等三州に至り家康公に従い奉る。 宗能は後 年老いて郷里に閑居す。