柘植一族 家康に仕う

天正十年(1582)六月二日 明智光秀が織田信長を弑した「本能寺の変」に際し、偶々(たまたま)京都に居た徳川家康は、泉州 堺から帰国の途中、伊賀の士 服部半蔵 柘植三之丞(清廣)以下十三名と伊賀の郷士二百人に護衛され、危険を冒して間道を越えて伊賀を通り、無事 浜松に辿り着いた。服部半蔵 柘植三之丞(清廣) 山口甚助 菊地半助等は その功により千貫匁(約3.8トン)の禄を与えられた。次いで家康が幕府を江戸に開いた時、多数の伊賀郷士を招いて御広敷番 小普請方 山里明屋敷番などを勧めさせた。これらを伊賀者 或は 伊賀衆と呼ばれていた。『柘植家譜』には この時の模様を次のように述べている。

東照宮(徳川家康)天正十年(1582)堺より伊賀地を過ぎ下柘植に渡御の時、柘植清廣仰せを承りて同邑の者数人を率い、伊勢白子への御道しるべして関の地蔵のこなた鹿伏兎(かぶと)に至らんとす。 時に清廣言上せるは「鹿伏兎の輩と柘植の者とは常に讐敵たり。我 従い奉らば却って大事を引き出さも計り難ければ、某等(それがし)は是より暇を賜るべし」御供に列せし内の米地九左衛門政次は近郷の者にも面体を知らせず隠し置きたる 四、五人の内にて しかも 国方三十里(約120km)の間、鹿の通い路に至るまで詳さに知る者なればとて、彼米地(政次)をして案内者に奉り、清廣等は慶長五年(1600)関ヶ原之役に御供せんとて参陣せしかば、奇特なりとて召し出され鉄砲足軽二十人を預けらる。此の間 速やかに本国に帰り人数を選びて参るべき旨 命を蒙り、やがて伊賀国に帰り精兵二十人を具して御供に候す。 凱旋の時、近江国 永原の御殿に召され同国甲賀郡の内に於いて采地(領地)三百石を賜う。

右 清廣の子孫は分家と共に代々徳川直参旗本として江戸城に勤めた。米地政次は後に柘植姓を名乗り別家を興しこれ又 徳川幕府に仕えた。