無足人のこと

徳川時代 藤堂藩には『無足人』という制度があった。伊賀之乱で柘植一族の多くは他国に流転したが、残った者は無足人となって郷士化した。「無足人」とは元来「お足がない」(お金がない)ことで、禄はないが苗字帯刀を許され武士に準じて一般農民とは異なる特権的な階層であった。これは筒井氏の時代からあったが、藤堂氏が農村統制に無足人を巧みに取り入れると、彼らは一般百姓の上に立つ優越感から藩の手足となって村の治安に当たり、有事の際には藩の補助的軍事力となった。慶安年間(1648-1652)の『無足人帳』によれば 伊賀では七十五人居たと記され元禄時代(1688-1704)になると、伊賀だけで一千二百余人を数えたという。 無足人は村の有力者達であり、大庄屋庄屋 年寄の殆どはこの『無足人』で占められていた。(『郷土の歴史』近畿編より)