柘植氏の定紋

柘植氏の定紋は『左 三ッ巴』 略紋は『丸に二引』となっている。巴(ともえ)は即ち鞆絵(弓を射る時 左手首に着ける革製の具を側面から見て図案化した絵柄――広辞苑)を意味し、めぐり巻く水の形を象(かたど)ったものである。しかし各地の柘植氏の定紋を調べてみると可成り異なったものも見られる。尾張に多い織田系柘植氏の紋は、系統が違うので『瓜に五七の花桐』『丸に引両筋』『揚羽蝶』『三頭左巴』など様々であり、四国柘植氏のは『左三ッ巴』の下に横線二本を添えたもので、これはその祖先が高松藩主松平侯から賜ったものと伝えられている。岐阜県恵那地方の柘植氏の紋は『二ッ巴』である。何故『三ッ巴』が『二ッ巴』に変わったのか、そう言えば私の家では『一ッ巴』であった。子供の頃聞いた話では「本家が『三ッ巴』だから、分家の我が家は『一ッ巴』である」という話であった。妙な話だが、昔の武家では格式を重んじたから そのような差別があったものと思われる。知行 禄高でも 分家は本家の半分以下とされていた模様で、亀山藩の柘植本家は二百石取であったが、私の祖父は分家であったので八十石であったという話である。また隠棲した場合 その身分を隠すため そのような定紋の変化となって現れたものではなかろうか。
発祥地伊賀の柘植一族を調べてみると、日置神社の屋根瓦には『丸に二引』(略紋)が使われて居り、同地の柘植氏は皆『三ッ巴』で、西川 勝島 福地などの一族も同様『三ッ巴』だが、松尾は『丸に剣花菱』『丸に立羽』『丸に矢違い』など様々な定紋である。しかしこれら松尾家の様々な家紋は、総て平家一門が『三ッ巴』と共に使用していた定紋であるから、同族関係にあることは肯(うなず)ける。
昨今では、生活様式の変化から家紋の使用が殆どなくなり、自分の家の家紋すら知らぬ者がいるとも聞いている。会社にも『社章』があり、そのバッヂを胸に付け通勤しているサラリーマンがいることを思えば、我が家の定紋も日常私生活 親族間の交流行事などには、我が家の『家紋』をもっと愛用すべきではなかろうか。