総 説
当時 柘植郷一帯に宗清の一党が豪族として繁栄したことは 城砦跡の機構や菩提寺に残る古碑などによって充分察知することが出来る。戦国時代となって織田信長の侵攻により潰滅するまで、五百年もこの地に平和が続いたと「多聞院日記」は伝えている。
天正九年の伊賀の乱によって、柘植一族はその本拠を失い各地に流転、その正統はかつて徳川家康に宿を貸した縁故により三河に移って家康に仕え、江戸に幕府開設後は旗本に列して神君以来の譜代の臣として代々厚遇を受け「寛政重修諸説譜」には七家を載せている。 また 地方各藩に仕えた柘植氏も多く、別に戦国時代 織田や豊臣家に仕官した者もあるが、皆 その元は伊賀柘植郷の出である。
現在、 全国各地に柘植姓の分布状況を調べてみると、東京都 愛知県 岐阜県 三重県に最も多く、特に 岐阜県の恵那郡地方や愛知県の刈谷などに集落的なものがみられるのは、戦国時代の落武者の土着から繁栄したものと考えられるし、三重県伊賀町の伊賀の乱の際、残った一族が土民化したものである。
特質したい事はこと古今を通じて柘植一族に頭脳すぐれた者が多いと言う事実である。古く伊賀に於ても柘植氏は服部氏と並んで有力な支配階級であったし、武士ではないものも庄屋年寄の如く常に一般民の指導的役割を果たした人物が多かった。姓こそ異なれ祖を同じうした芭蕉の如き偉人を出した事も大いに誇りとしたい。
現今でも紳士録に輝く十八氏を数え教授 医師 官吏 会社員等に有能な人材が多いことは、柘植一族の毛並みの良さを証明するものである。
しかし、何事にも例外はある。かく申す筆者など、その例外凡俗の最たる者である。また 柘植利平の如く、その持てる知能を悪用したことは遺憾で、同族の恥辱として自戒せねばならぬ。
勢力争いに終始した未開国時代を経て、封建制度の崩壊から近代文化国家へと時代は移り変わる。歴史を顧みて、優れた血統を享け継ぐことに我らは常に誇りと自信を持ち自らを磨くと共に祖先に恥じなき優秀な子孫を次の世に送り出さねばならないと思う。
茲に柘植氏の発祥から現在に至る転変の歴史やエピソードを、各項目に分けて詳述したい。
【注】前記 柘植利平なる男は岐阜県恵那郡中野方村(恵那市)出身警官 大詐欺強盗 詳細50頁参照(林)