美濃の柘植一族

岐阜県下 特に東濃地方には、古くから柘植一族が集団的に住んで居り、恵那郡飯地村 中野方村 大井町(以上 何れも今は恵那市) 加茂郡潮南村(現在 八百津町)白川町などに最も多く、その他 中津川市 土岐市 瑞浪市 美濃加茂市にも在り、農業を営む家が多い。わけても潮南地区は住民の六割までが柘植姓で、さながら柘植部落の感がある。また こゝに隣接する飯地村は柘植姓が約二十戸、柘植秀至氏の家がこの部落の草分けで、付近の約十戸はその分家であると言う。ここの初代は、墓碑銘によれば寛文十二年(1672)とあり、 三代目までの戒名には、みな『宗』の字がついている。八代目の柘植咲五郎氏は、明治二十六年東京に出て医師となり、品川□海病院の院長であった。理学博士柘植英臣氏は九代目、 咲五郎氏の五男で法政大学教授、この地方の出世頭と言われている。
現地は重畳たる山岳地帯で、南は木曾川の急流に臨み、その断崖上 海抜六六〇米の高地に点在する小部落である。このような天険貧土の地に祖先は何故住居を定めたのであろうか。恐らく戦の落武者残党の隠棲から始まったのであろうと言うのが柘植秀至氏(岐阜県瑞浪市土岐町益見在住)の意見である。今一つ考えられることは、古来 東濃木曾川以北の地帯は、南朝遺臣の蟠居地として知られている恵那郡蛭川(ひるかわ)村は南朝の残党 平流川侍の隠棲地で、後醍醐天皇の皇子らの遺跡もあり、南朝神社も祭祀されているので、柘植氏の祖先は南朝の臣として各地を転戦の上、敗残の身を此所に避け土農化したものではあるまいか。蛭川村は昔 南北朝時代 平流川村と称した。「平氏の流れを汲む者の村」という意味であろう。此所にも柘植姓の家が現存するし土岐津小学校長 柘植 工氏は、かつて祖母(嘉永三年生まれ)の使う日常語には平家物語に出てくるような独特の言葉がよく出て「平家の末裔だな…?」と感じたと述べておられる。また 当時、伊賀武士は宮門守護の役に任じた者が多く、宗清(桓武平家の一党 柘植一族の祖)の子家清から七代目清泰が、後醍醐天皇に奉属し忠功を顕したという古記録と思い合わせて考えれば、これに結び付くものがないとは言えない。してみれば この蛭川村が美濃の柘植一族発祥の地なのかも知れない。しかし その事実を明らかにする資料が得られない。 幕末の頃 勤皇倒幕の声に怯える幕府が、文献 資料の隠滅と神社仏閣の破壊を命じ、苗木藩主がこれを強硬に実行した為、これらの古い記録や資料が悉く失われ、その歴史を知ることが出来ないのは残念である。ここの柘植一族は県内市街地は勿論 名古屋市などにも多く進出し、その驚くべき繁殖力は発祥地 伊賀の勢を凌ぎ大きな流れとなって居り、今や全国に拡がりつゝある。
本稿の資料は柘植秀至氏(瑞浪市) 柘植新一氏(飯地出身 名古屋市) 柘植教利氏(中津川営林署)より頂いた。

美濃の柘植一族 昌一加筆
 美濃の柘植一族は、潮南村篠原(すずわら)河方家の土蔵から見つかった古文書より、その系譜が明らかとなった。(詳細は「清和源氏山田流柘植一族」にてアップ予定)