三河刈谷の柘植部落

愛知県刈谷市にも可成り大きな柘植部落が存在する。徳川時代 三河碧海郡刈谷城は土井淡路守(二万二千石)の小藩で三河と尾張の国境知多半島と向かい合った衣ヶ浦の奥地に当たり刈谷市の小垣江というところ、此所の中組 下組 大ヶ坪の三部落合わせて一五〇戸位の殆どが柘植姓の文字通りの柘植部落である。主に農家であるが、何時頃からこの部落が出来たのか記録もないので 確かなことは判らないが、戦国時代の末期 豊臣方に仕えた柘植一族の祖先が、関ヶ原の合戦に敗れ 三河に逃れて この地に土着したのが始まりだという話である。これら柘植部落の中で、どこが本家なのか これも不明であるが、伊丹自衛隊に勤務の柘植敏昭氏の家は 相当古く現在九代目で、ここの過去帳によれば初代は延享四年(1747)に亡くなって居り、六代柘植安吉 七代勘助 八代篤正の名が記載されている。七代目勘助氏は八十五歳の長寿を全うしたが、武士であったらしく刈谷城に出仕していた模様である。 現在 中組部落の地面を深く掘ると貝殻が出てくるという話で、この辺りの先住民は魚介類を捕って生活し、次第に農地を開拓して来たものと想像出来る。その後 子孫繁栄し分家が増えて 現在の大きな柘植部落に発展して来たものであろう。ここの柘植氏の家紋は『横モッコ』である。右の柘植三部落の略図は刈谷市在住の柘植 林氏(畳職)の提供によるものである。
この地三河では、東加茂郡松平町や西加茂郡三好町にも柘植姓の家が多くあるという。