雑 録

◆柘植氏蔵書印
宝永・享保年間の人 柘植知清は読書家であったとみえて「柘植氏」という蔵書印を残している。徳川直参の旗本として大番に列していた柘植傳左衛門知清のことである。

◆柘植大炊壷
駿府御□物分配帳によると、徳川家康秘蔵の茶器類の中に「柘植大炊壷」なるものがある。茶道具類には大名将士の名前の付いた物が多いが、彼らの中には数寄者が居たことが判る。柘植大炊介は織田・豊臣に仕えた家臣であった。

◆俳人 柘植氏
時代は何時頃か。 古い俳人譜の中に鳩来庵風谷の門下に柘植其文の名がある。また明治初期 伊賀の人 上柘植の医師柘植健作は四沢と号し、俳句の外 漢詩和歌にも長じその子 百童(嘉永五年生れ 医師)も「吐雲」の俳号を持ち歌仙に長けた人であった。他に郷土俳人として、俳句誌「かへる」同人 柘植一素は大正中期の人である。

◆儒医 柘植氏
「明治十三年十二月五日儒医柘植高盛没す」と国史大宇巻に出ている。何処の人か不明 享年七十二歳 『医案救荒私百』『老子訓釈』『時務策』『傷塞論古義』などの書ありと。また三重県出身 陸軍二等軍医 柘植 麓 日露戦役に後備兵より召集され歩兵第二十二聯隊付として従軍、清国にて病に罹り明治三十八年十月十日開元兵站病院許家台分院にて死去す。「戦功により勲六等功五級に叙せらる」とある。

◆有馬の柘植の間(ま)
昔の御殿をまね旅館などの客間に植物の名を付けたものが多い。有馬温泉中之坊の旅館に「柘植の間」がある。柘植の皆さん 有馬へ来られたら この間に逗留されたら如何が「『柘植の間』の『柘植さん』」とシャレてみるのも一興であろう。

◆野球人 柘植氏
現代スポーツ界に柘植選手の名を見ることは少ないが、野球選手として名古屋東邦商業出身の柘植広之君が富士製鉄釜石から最近常磐炭鉱へ移りノンプロ球界で活躍している。その弟 柘植 桂君も かつて東邦商業の三塁手であった。また中京商業から立教大学の外野手 柘植章男君(名古屋市瑞穂区鳴海町)は卒業後 日鉱日立の外野手で活躍している。