柘植姓の由来

 柘植氏は桓武平家から出た伊賀の豪族で、この柘植郷から起った。
『天正伊乱記』に「柘植一族は池大納言頼盛の従士 弥平兵衛宗清の末流」とあり江戸系図』『柘植家譜』等には、左の由緒書がある。
元暦二年(1185)三月廿四日 長門国 赤間関 壇ノ浦に於て源平相対逐平氏敗北して族滅す。其後 源頼朝卿池大納言頼盛 及 宗清を招請すれど、再び世に其名を顕すを欲せず固辞して鎌倉に到らず、伊賀国に赴き山中深く隠る。此時 藤九郎盛長 頼朝卿の使价となり宗清宅に到り伊賀国阿拝郡・山田郡三十三村を宗清に賜う。盛長語りて曰く「誠に是 老休の地たり。能く相役して居家を構うべし」と。 茲に於いて宗清 戯れに、柘(つげ) 一枝折り地にさして曰く
「若し此の枝 成長繁茂すれば 居家を此の地に構うべし」と。 翌年、柘一枝 大いに繁茂して花開く。宗清 甚だ喜び、和歌を賦し柘植を以て氏となす。 柘植の称号 是より始まる。 歌って曰く

  柘植の野に こしつる花を植えおきて 我がゆく末を いわうべき哉

これが柘植姓の生まれた由来であるが、この系図に書かれた辞句には信じ難い点がある。頼朝が宗清に対し三十三村を賜ったということは、両人の恩義関係(後述)によってうなずける、又頼朝の側近には安達藤九郎盛長の居ったた事も史実で明らかである。然し この重臣をはるばる鎌倉から伊賀の山中まで遣わしたかどうか。 京都への使命でもあって、その序に立ち寄ったとも考えられるが どうも疑わしい。
「柘一枝を挿して開花した云々」の件も、その文章に作為的なものが感じられる。殊に之に依れば宗清自身が柘植姓を名乗った事になっているが、種々の資料を調査したところ宗清の子が日置姓を名乗り、その子孫から柘植姓が出て居る。柘植と言う地名がこれより先に出来ているので、柘植姓は地名から生れたと考えるのが正しいと思う。茲に疑問とすべきことは『源平盛衰記』に「伊賀国住人柘植十郎有重」の名が出て居り、有重は源行家に従い播州室山合戦に於いて越中盛次に討たれたとあるが、室山戦の行われたのは寿泳二年十一月の事でこの頃既に柘植姓が存在した訳で、『三国地誌』によれば有重は上柘植に住すとある。然し十郎有重の名は『柘植家譜』にも無く柘植郷ではその跡らしきものも見当らぬ。殊に源家筋の人物とすれば宗清一党には全く無関係と考えざるを得ないのであるが、この問題はなを研究を待たねばならぬ。