柘植姓の由来
柘植氏は桓武平家から出た伊賀の豪族で、この柘植郷から起った。
柘植の野に こしつる花を植えおきて 我がゆく末を いわうべき哉
これが柘植姓の生まれた由来であるが、この系図に書かれた辞句には信じ難い点がある。頼朝が宗清に対し三十三村を賜ったということは、両人の恩義関係(後述)によってうなずける、又頼朝の側近には安達藤九郎盛長の居ったた事も史実で明らかである。然し この重臣をはるばる鎌倉から伊賀の山中まで遣わしたかどうか。 京都への使命でもあって、その序に立ち寄ったとも考えられるが どうも疑わしい。
「柘一枝を挿して開花した云々」の件も、その文章に作為的なものが感じられる。殊に之に依れば宗清自身が柘植姓を名乗った事になっているが、種々の資料を調査したところ宗清の子が日置姓を名乗り、その子孫から柘植姓が出て居る。柘植と言う地名がこれより先に出来ているので、柘植姓は地名から生れたと考えるのが正しいと思う。茲に疑問とすべきことは『源平盛衰記』に「伊賀国住人柘植十郎有重」の名が出て居り、有重は源行家に従い播州室山合戦に於いて越中盛次に討たれたとあるが、室山戦の行われたのは寿泳二年十一月の事でこの頃既に柘植姓が存在した訳で、『三国地誌』によれば有重は上柘植に住すとある。然し十郎有重の名は『柘植家譜』にも無く柘植郷ではその跡らしきものも見当らぬ。殊に源家筋の人物とすれば宗清一党には全く無関係と考えざるを得ないのであるが、この問題はなを研究を待たねばならぬ。