頼朝と霊山の伝説

伊賀町の中央を貫く柘植川の清流に添って霊山の北麓に拝野という小字がある。芭蕉の生地と伝えられる所であるが、平治の乱(1159)に敗れた頼朝が、父義朝と共に尾張へ落ち延びる時、拝野の里に一泊し遥かに霊山寺を伏拝み、源氏再興を祈願したという。また宗清に捕へられて後、頼朝が命乞いの叶った御礼に伊勢参宮の途次、宗清と共にこの里を通り掛った時、霊山の頂きから御来光を拝し「これこそ大神宮の御来臨」とかしこみ、「参宮に及ばず」と京へ引返した。 この霊験があってから この里を拝野と呼ぶようになったと伝えている。
 霊山の頂上には平安朝の初め 伝教大師草創の大伽藍があったが 天正の乱?(1573〜1590?)に兵火で焼失し 今は石室に聖観音の青銅立像(高さ三尺七寸 延宝三年の作)を安置するのみ。この観音像を頼朝が信仰したと伝えられ、『三国地誌』に左の如く記してある。

《注》源 頼朝は建久十年(1199)に逝去している。然るに 延宝三年(1676:江戸中期)に作られたこの観音像を頼朝が信仰していたとは不可思議な話である。 (平成十年 林 芳樹)

 「霊山寺法興山 按傳教開祖の霊区たり。山頂に故地あり 保元の乱(1156) 平族宗清 本郡の吏たるを以て頼朝卿 此に囚獄せらる。頼朝 この像を景仰し池ノ禅尼の恩を得て首領を保ち、統一後 此の像頼朝の夢想のことあり、頼朝 先の恩を懐い重修すという。其後天正の兵火に回禄(火災)して此の遺像のみ存す。延宝乙卯 弘福鉄牛 茅舎を興し中古の祖となる。」

是に依れば頼朝が霊山に囚獄されていたと言うのであるが、これはどうも疑わしい。宗清が頼朝を捕らえ京都六波羅に到着したのが永暦元年(1160)二月九日で、同年三月十一日には京都を発って伊豆に護送されて居る。其の間 僅かに一ケ月。京都の宗清宅に滞在した此一ヶ月の間に伊賀の霊山まで移送するヒマがあったかどうか、甚だ疑問である。