平家滅亡と宗清の行方

壇ノ浦に於ける平家一門の最後は『平家物語』に見ても壮烈そのもので、八歳の安徳帝を擁して西海の底深く沈んだ哀話は後世に永く語り伝えるが、宗盛父子が虜となった事を除けば、一門悉く列戦して難に殉じた。源氏が父子兄弟一族相殺して滅びたことに比べれば武士としていさぎよい最後であったと言えよう。
我等の祖宗清がこの一戦に参加していたかどうかは判らない。『東鑑』には「屋島に往き宗盛に仕う」とのがあるのみで 其の後の消息が不明のため、前記のように『大日本史』には「宗清 遁れて終わる所を知らず」と記している。『柘植家譜』によれば敗戦後伊賀の山中に隠棲したことになっているし、寛政五年(1793)の著書 五升庵蝶夢の『芭蕉翁 絵詞傳』中に宗清の事蹟を詳述し
「年頃 領せし伊賀国阿拝の柘植の庄に至り、様を変えて隠れ忍びて住みし也」
と述べている。また下柘植の柘植家に伝わる『先祖由書』には
「代々 宗旨 浄土宗 京都智恩院末寺 下柘植法縁山西光寺 累代之菩提所也
 自西光寺本山 指出不知 開基 柘植弥平兵衛宗清菩提所与書」
とある。只 異説としては肥後文献『古城寺考草場古城』の條に
「天正の頃(1575頃) 伊賀野次郎三郎 島津勢に攻められ落城、伊賀野の先祖は平宗盛の臣伊賀十郎兵衛宗清と云う。平家没落の後 当国に下向して住居せり」
と記してあり、平宗清が改名したものと仮定して 肥後の早尾村が終焉の地という説であるが、これが果たして その宗清であったかどうか疑問である。いずれにしても、壇ノ浦 敗戦後平家残党の詮議厳しき中に宗清が身を全う出来たのは頼朝の庇護があったからであろう。
宗清の仕えた池大納言頼盛は、その所有する荘園 全国三十四ケ所に及んだと『東鑑』は記している。伊賀では長田庄 木造庄 建田庄などが所領であったから、宗清にとっても関係が深い。殊に頼朝から阿拝山田の三十三ケ村を賜ったとすれば 尚更の事である。 また伊勢平氏との関係も重要な鍵となる。伊勢平氏とは平維衡(貞盛の子、高望王の曾孫)以来 伊勢に住んだ一族が、当時安濃津を基として北は桑名に 東方三河から西伊賀地にまでのびて繁殖していた。宗清もその一族に当るし同族関係の惟綱の娘が宗清の妾となって家清を生んだことが『平氏系図』に記されて居る。この家清が日置太郎家清と名乗って伊賀に住んだ事から見ても、宗清がこの地に隠棲していたことはまちがいないと思考するものである。