元気のよい企業


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はじめに


自信を失いそうな日本経済に、「元気のよい企業」を紹介することで、元気を出して貰えればとこのホームページを設けました。

ホームページの量に限界があり要約していますが、この中には、事業の成功の鍵が秘められ、ベンチャー起業家、起業の経営者、起業研究家に参考となれば幸いです。


なお、著作権の侵害とならないよう注意しましたが、参考文献をなるべく注記するよう努めました。

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スリーエム社


3M(スリーエム社:ミネソタ・マイニング・アンド・マニュファクチャリングの頭文字3つのMを現す)は、1902年5人の創業者によりスタートした。93年後の95年には、総商品点数5万点を超え、7万5千人を抱える巨大企業である。

95年の売上高は135億ドル(前期比10.8%増)、営業利益22億ドル(同6.0%増)、売上高営業利益率は16.5%と高水準である。

1996年12月決算の年次報告書(Form8-K)に示された最近5年間の主要な財務指標は次の通りです。.

単位:百万ドル (一株あたり利益はドル単位)

主要財務指標 1996年 1995年 1994年 1993年 1992年
純売上高 $14,236 $13,460 $12,148 $11,053 $10,817
継続事業からの純利益 1,516 1,306 1,207 1,133 1,116
一株あたり利益 3.63 3.11 2.85 2.61 2.55
配当支払額 $ 1.92 $ 1.88 $ 1.76 $ 1.66 $ 1.60
期末総資産額 $13,364 $14,183 $13,068 $11,795 $11,528
長期借入債務(1年内返済額を除く) 851 1,203 1,031 796 687

増収増益である。

新商品開発は、3Mにとって至上命題。「過去4年間に出した商品で売上高の30%を稼ぐ」という目標を掲げている。以前には、「過去5年間に出した商品で売上高の25%」の目標としていたが、すでに目標を達成している。

スコッチテープ、スコッチガード、マスキングテープ、道路標識の反射シート、光デイスク、貼ってもはがせるメモ用紙ポストイット、ナイロンたわしなどちょっとしたアイデアが巨大組織を支えている。

30から40のテクノロジー・プラットホームと呼んでいる基礎技術(粘着剤、研磨剤、反射剤、照明、レンズ、エレクトロニクスなど)があり、一つのテクノロジー・プラットホームから平均1000以上の商品が生まれる計算となる。1商品平均売上高は30万ドルでしかないが、ニッチ市場が中心であるため、他社の追随は少なく価格競争に巻き込まれず、結果として高付加価値を享受している。

テクノロジー・プラットフォームとは、最大の例は、3Mの製品の半分には接着剤が使われている。スコッチテープにも、ポストイットにも、手術衣服にも、高速道路の標識にも使われている。広範囲な製品に使用できるこうしたプラットフォームを40近く持っている。

1914年に20代の若さで総支配人に就任したウイリアム・マックナイト氏が、2年後に研究室を設立して研究開発型企業の姿勢を明らかにした。実質的な創業者であるウイリアム・マックナイト氏は経営者の独裁と社員の自主性の喪失を何より恐れたという。経営者の独断よりも、自主性を持った多数の社員の集合体として企業が動いていった方が成功するという思想だ。現経営陣はその意思を今も引き継いでいる。

市場の声を聞いて開発するプロダクト・イン型ではなく、メーカー技術者の発想で開発するプロダクト・アウト型を志向しこだわりを持っている。

次のような、ユニークな制度を社内にいくつも持っているが、不文律で、企業文化を形成している。

社内表彰制度
カ−ルトン賞は3Mのノーベル賞といわれ、研究成果が会社の発展に大きく貢献した者だけに与えられる。のり付きメモ用紙のポストイットの開発者アーサー・フライ氏は83年に受賞している。
カールトン賞のほかに11の社内表彰制度がありあらゆる部門の社員が対象となっている。
ちなみに、商品が売れても報酬はなく、また、特許は従業員個人ではなく、3M社の特許になる。
15%ルール 業務時間の15%を自分の好きな研究に費やしていいというルール
ブートッレッキング ブートレッキング(密造酒造りの意味)とは、勤務時間終了後に、会社の設備を使って密かに研究を進めることを推奨している。
スポンサーシップ制度 アイデアを持った社員がいた場合、管理職は予算・人事面で支援するスポンサー役にならなければならない。
失敗から得る経験を大切にする 「汝、アイデアを殺すなかれ」。キリスト教の10の戒律になぞらえ3Mでは第11番目の戒律といわれる。上司は、部下が「やりたい」と申し出た場合、明らかに失敗すると証明しない限り止めてはならない。研究が失敗しても経営陣は問題にしない。それどころか、失敗を推奨するかのような言葉まで聞かれる。
ストック・オプション制度 会社の株式を一定の価格で購入する権利を付与し、会社の株価が上昇すれば株式を購入し時価で売却してキャピタル・ゲインが得られる制度。



「失敗から得る経験は大きい。それに、失敗が死を意味するわけではない。」とCEO(経営最高責任者)は語る。独特の社風は社内を歩いただけで感じられる。社員は、なごやかな表情の人が多い。

3Mは社員の個性や独自性を尊重する。それには理由がある。研究開発の方向を無理に1つにまとめないことで逆に、できるだけ数多くの新商品を出そうとしているためだ。違ったタイプの人間が、豊富なアイデアを持っていれば、それだけ新商品が生まれる確立が高くなる。社員の仕事への姿勢は決して緩んでいない。自らの好奇心によって取組んだ仕事に、身が入らないわけがない。

「アイデアがひらめくと、午前2時でも車を飛ばして会社に来る」と話すのは、テープ開発を手がけ87年にカールトン賞を受賞したジョン・マーテン氏。

経営トップが自らの失敗を大らかに語る

3Mのトップ、デジモニ会長が、91年会長に就任以来よく語る失敗談がある。「75年のこと、デジモニ氏は部下である開発チームに超軽量不織布を作る研究を打ち切るように命じた。資金がかかる割に、成果が上がらないと見切りを付けたのだ。だが、開発チームは秘密で開発を続け、デジモニ氏が上司でなくなった瞬間から再度大々的に研究を始め、ついに軽量で防寒に優れた「シンサレート」という布を作り上げた。今では、スキーウエアに利用されるなどヒット商品となっている。」というものである。
経営トップになったほどの人間でさえ、アイデアの将来性を見ぬけなかった。たとえ、自分のアイデアが上司に理解されなくても、成功の可能性を信じて研究を続ける価値があるかもしれない。デジモニ氏の失敗談は、社員の前向きな姿勢、考え方を引出すため巧みに仕組まれたものである。


戦後生まれの商品は、今の日本人にもなじみ深いものが多い。
まず、雨の日に靴などにつける「スコッチガード」。これは、偶然が生んだ商品である。主材料のフッ素化合物は、技術が確立したもののどう商品化していいか分からずお蔵入りしていた。ある時、研究者が誤って自分のテニスシューズにこの薬品をこぼしてしまった。水で洗っても落ちないので仕方なくそのまま履き続けたところ、薬品がかかったところだけが汚れていないのに気づいた。この発見をきっかけに56年に商品化されたものである。

のり付きメモ用紙「ポストイット」にも開発神話が残っている。この商品は、そもそも失敗から始まった、70年に接着剤の研究者が、強い接着力のある商品を作ろうとしたところ、意に反してはがれやすい性質のものが出来てしまった。しかし、この研究結果を社内に広めておいたことが後に幸いする。他の部門の研究者だったアーサー・フライ氏が「落ちないしおり」が欲しいと思い、この接着剤の性質に注目したのだ。フライ氏は15%ルールによって勤務時間外を使って研究を進めた。そして約5年間の歳月を費やして80年にポストイットを完成させた。

本社のあるミネソタは、冬には零下40度近くまで気温が下がる農業地帯の厳しい自然環境にある。その中で生きていくために、協力をして肩を寄せ合って困難に立ち向かう風土がある。強い共同体意識がある。 一度共同体の一員となった人は皆で守ろうとする。3Mは「社内失業者」がいることを認めているが、それは「邪魔者」ではない。どこかの部署で人手が足りなくなれば優先的に職を与えるようにする。終身雇用制度をとっている。どこか日本企業のようである。


ハイテク業部門をスピンオフ(企業分割)

1996年1月、3Mのデータ記録媒体・画像処理関連部門をスピンオフ(分離)し、イメーションを設立した。イメージング(画像)とインフォーメーション(情報)を合わせた造語の社名である。

「3Mでは新製品の開発に2年から4年、ものによっては5年かかっていた。情報・画像の分野では1年半でなければ他社に追いついていけない。経営層の階層も少なくして意思決定の速度を上げ、小さくてスリムな組織にする」と初代会長モナハン会長は語る。

イメーションの社員数は9700人。業績は96年1月から9月の売上高は16億9660万ドル、前年同期比0.5%増。95年の情報・画像関連部門はやや赤字の状態だったのが、98年末には営業利益率8%から10%を目指す。3Mは、イメーションのスピンオフに、4つのお土産を持たせた。

一つは、データバックアップ・システムの「トラバン」で、ミニカートリッジテープを使った高密度記録が売り物。二つ目は、次世代のコンピューター用記録媒体として注目される高容量フロッピーデイスク「LS−120]で、現在のフロッピーデイスクの約120倍にあたる120メガ(1メガは100万)バイトものデータを1枚に収められるもの。 三つ目は、医療用デジタル画像処理システムの「ドライビュー」で、レーザー光の利用で現在のレントゲンに代わる存在になると期待されているもの。四つ目は、印刷用色校正システムの「レインボー」で、デジタル技術できめ細かく色の修正ができるもの。
これらの技術による新製品が市場に出る見込みがあったから、分離ができたとのことである。


スピン・オフとは

米国の場合、企業分割の課税方法が内国歳入法で規定され、スピン・オフ、スプリット・オフ、スプリット・アップと呼ばれる3つの方式の企業分割について、旧株主に新たな分割企業の株式を交付されるが、交付された株式について非課税取引として認めている。

スピンオフとは、事業をヒト・モノ・カネすべての面で完全に切り放し(分割)新たに生まれた企業は、資本関係がなくなる方式である。
税法上の問題は、資産や株式の異動があった場合に非課税になるかどうかである。この点、米国では上記の方式の場合非課税を認めている。

日本には企業分割の法的な規定はない。まして、日本の税法にも非課税の規定は存在しない。因みに、日本法人の住友3M社の社長の話によれば、日本でもこのスピンオフにより3Mの株主にイメーションの株式が交付されたが、日本の税法では、株式取得により所得が発生したとして課税されたとのことである。

出展:NIKKEI BUSINESS 1997年1月13日 /:財務数値はSECデータベースより入手



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SAP社


1972年4月、元IBMドイツのシステムアナリストの5人が、Systems Analysis and Program Development の頭文字をとってSAP社を設立、本社をドイツ、マンハイムに置いた。

設立に際し、2つのビジョンを、一つは、事業過程のすべてを統合した汎用性ある標準ソフトの開発および販売し、二つ目は、データがリアルタイム(同時性)でインターラクテイブ(双方向性)で処理できるとういものである。 こうしたビジョンは、IBMドイツでシステムコンサルタントをしていた時に思い付いたものである。

企業文化:
1.組織がフレキシブル(しなやか)である
2.上下関係がフラット(水平)である
3.社内報告制度がインフォーマル(非公式)である
4.オープン(開放的)である
5.新しい考えや、予期しない考えに対し、受入態勢がある。創造的、革新的なものを歓迎する起業文化がある


事業内容:
統合業務アプリケーション・ソフトウエアの専業メーカー では世界のトップ企業。一般ソフトを含めると、マイクロソフト社がトップ企業でSAP社は第4位となる。

業績:1996年現在

ドイツ百万マルク
参考値

1DM=70円換算
百万円
対売上高割合
売上高 DM3722 \260,554
純利益 567 39,725 15%
研究開発費 588 41,223 16%
人件費 1,338 39,695 15%
総資産 3,367 235,697
株主持分 2,211 154,791 自己資本割合66%
従業員数 9,202人
顧客企業数 7,500社
利用している国 85カ国


1988年フランクフルト証券取引所、シュトットガルト証券取引所へ上場


1972年の創業時のメインフレームは、500キロバイトの容量しかなく部分的なアプリケーションソフトであった。最初の顧客は、ドイツのICI子会社であった。9人の従業員で62万マルクの売上で利益を計上した。

2年目に、タバコと医薬品の会社の仕事を請け負い、財務会計ソフトの開発と在庫管理ソフトを開発した。最高の標準ソフトパッケージとの評判を取り、急速に売上を伸ばした。これにより、40件のお客を開拓した。在庫管理システムと財務会計システムを統合した。

5年目本社をウオルフドルフへ移転し、Gmbh(有限会社)とし、社名の元を、Systems,Application and Products in Data Processing、に変更した。売上は4百万マルクとなり従業員は25人となった。外国の顧客2社(オーストリア)と初めて契約を結ぶ。1年後には顧客100件となり従業員50人となる。

6年目、資産会計システムを開発、同時にフランス語版会計ソフトを開発して国際市場に参入した。R/3システムの開発を開始した。売上高は10百万マルクに迫った。

7年目、R/2ソフトウエアの開発と販売開始。

8年目(1980年)、自前のコンピュータセンターをウオルフドルフに完成し、一つ屋根の下でチームが統合して開発できるようになる。ドイツノ大企業100社のうち50社がSAP社の顧客となる。
顧客の継続支援と新たな原価計算システムのモジュールの開発を行い、R/2システムを国際市場に出せるようになる。

10年目(1982年)、10周年記念では、売上高が48%旧上昇し24百万マルクとなる。この年の末には、SAP社の標準ソフトがドイツ、オーストラリア、スイスの236社で稼動した。以降、売上高は45%上昇し続けた。

12年目(1984年)、SAPインターナショナルをスイスに設立、国際市場でのR/2システムの販売に集中した。人事管理システムおよび工場管理システムの二つのアプリケーションシステムを開発し、生産計画および管理システムを最初の顧客に納入した。

13年目、ドイツ本社を1万平方メートルに拡大し、スイス子会社を本社に移転した。SAP社のシステムは、ヨーロッパの多くの国々で最も使用されるようになっていた。南アフリカ、クエート、トリニダット、カナダ及び米国などヨーロッパ以外の国々に浸透しはじめた。

14年目(1986年)、売上高が100百万マルクを超えた。資本金を50万マルクから5百万マルクに増資し、IBMのメインフレーム導入に7百万マルク投資した。

15年目(1987年)、オランダ、フランス、スペインおよび英国に子会社を設立し、従業員は750人に増加、売上高は2倍を超え245百万マルクとなり、850社がSAPのソフトウエアを使用した。
新世代のR/3システムを発表した。

16年目(1988年)、デンマーク、スエーデン、イタリアおよび米国に子会社を設立。コンサルテイング事務所のアーサーアンダーセンと合弁会社のSAPコンサルテイングを設立。ダウケミカル社が1000社目の顧客となる。

資本金を5百万マルクから60百万マルクに増資し、Gmbh(有限会社)からAG(株式会社)に変更し、フランクフルト証券取引所およびシュトットガルト証券取引所へ上場した。

17年目(1989年)、チューリッヒ証券取引所へ上場。SAP(インターナショナル)は、カナダ、シンガポール、オーストラリアを含む12の子会社に発展した。顧客の拡大とともに従業員は1000人を突破した。

18年目(1990年)、優先株を発行し85百万マルクに増資した。シーメンス・ニックスドルフと合弁でドレスデンに東ドイツマーケットへの足掛かりとして会社を設立。売上高は500百万マルクを超え、従業員は1700人に拡大した。

19年目(1991年)東ヨーロッパビジネスを急速に拡大し、R/2をロシアのソフトウエア会社と共同して、ロシア語版を開発した。 SAP社のソフトウエアを日本で最初の導入に成功した。
年度の終わりには、SAPグループで31カ国2225件の顧客を獲得、売上高は40%上昇し700百万マルクとなり、従業員は2500人を超えた。

20年目(1992年)、資本金を100百万マルクに増資し、南アフリカ、マレーシアおよび日本を加えて15の海外子会社を持つグローバルカンパニーとなった。
売上高831百万マルクの半分以上をドイツ以外の外国で稼いだことになる。ソフトウエアは14カ国語で可能となり魅力を増した。

1992年半ば、クライアント/サーバー・システムR/3を公表し、大企業の支店および子会社の中規模市場に浸透した。

21年目、ドイツソフトウエア業界でトップの座を占めた。国際的には、ソフトウエア業界で7番目であった。売上高で、1000百万マルクを初めて達成、顧客は3500社となった。マイクロソフト社とウインドウズNTで契約する。開発センターを米国カルフォルニア、シリコンバレー(フォスターシテイ)に開設。
SAPジャパンによって日本語版(漢字バージョン)が公表される。


22年目(1994年)、売上高は66%上昇し800百万マルクと飛躍した。年末には、従業員は全世界で5000人を超え、4000件を超える顧客のうち200件はR/2システムを生産に使用している。
資本金500百万マルクに増資した。 1:4のストック・スピリット(株式分割)を行った。

23年目(1995年)、マイクロソフト社は、IBMのハードウエアにR/3を導入した

R/3は総売上高の2700百万マルクのうち1700百万マルクと63%を占め最も大きな収入源となった。間接販売の概念をドイツで開始。再販売業者とパートナーを組み、中小企業向けに良質な支援をおこなう。新たなサービスと支援センターは750名の従業員でスタートした。SAP社の従業員は今や7000人を超え、新たな子会社を中国、アルゼンチン、ブラジル、韓国、ポーランド、ロシア、およびタイに開設した。SAP社は、子会社、支店、パートナー会社など40カ国にわたる。


出展:SAP社のホームページより


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セコム(株)

セコムは、32期連続して増収増益を続けている秘訣はどこにあるのだろうか。

1997年3月決算主要財務数値は次の通りである。

単位:百万円(一株あたり利益を除く)

1997年 1996年 対売上高利益率
売上高 \212,887 \200,164
営業利益 40,764 37,897 18.93%
経常利益 41,303 38,728 19.35%
当期利益 22,531 21,014 10.50%
一株当たり利益 195.05円 200.44円
期末総資産 399,308 384,102
自己資本の総額 299,357 271,948
自己資本割合 75% 70%


部門別売上高の明細

部門 1997年 割合 1996年 割合
セントラライズドシステム \157,975 74% \147,530 74%
常駐 17,482 8% 17,037 8%
現金護送 9,969 5% 9,107 5%
ローカルシステム 1,027 1% 681 -
その他 5,010 2% 5,545 3%
契約関係収入合計 191,465 90% 179,901 90%
商品売上 14,138 7% 12,603 6%
機器売上 7,283 3% 7,660 4%
売上合計 \212,887 100% \200,164 100%

1997年3月現在

設立 1962年(昭和37年)7月7日
創業者 飯田亮(まこと)氏(64歳)、戸田寿一氏(65歳)の2人
代表取締役 杉町壽孝(59歳)
資本金 652億円
企業数 国内83社、 819個所 21451名/ 海外10カ国32社 165個所 9401名
事業内容 各種安全システムの研究・開発・設計・実施・安全機器の販売、さらに新たな事業として社会システム産業の構築を始めた。


設立の経緯
1962年7月7日、飯田亮氏(当時29歳)と戸田壽孝氏(31歳)の二人により、日本警備保障(株)として設立された。当初は、米国の小売業シアーズローバックのような通信販売の会社を考えていたが、1961年秋、ある友人から「ヨーロッパには警備会社というものがある」との話を聞いて気持ちが変わった、と飯田氏の回顧録に記している
当時、国際警備連盟という国際組織があり、その会長であるスエーデン人のソーレンセン氏に「日本で警備会社を作るので支援を宜しく」と手紙を書いたところ、「すぐに日本に行くからそれまで設立は待て」との返事が来て、実際に来日して出資を要請してきた。資本金4百万円のうち、201万円をソーレンセン氏、199万円を飯田氏側と決まった。

創業時
設立は、すべて白紙から始まった。契約書を作のも日本には用語もなく用語造りから始める状況にあった。営業はすべて飛び込みであった。話は良く聞いてくれるのだが契約につながることはなかった。12月下旬麹町にあった旅行代理店が第一号の契約者になり一晩に5回巡回する契約を取り付けた。1962年秋「警備員募集」には400人の応募がありそのうち2名を採用した。2年目に、見本市やデパートの警備の臨時の仕事も入るようになり、1964年のオリンピックが飛躍台になった。

1966年機械警備システム(SPアラーム)を完成。センサーが異常を感知すると電話線を通じてコントロールセンターに通報され、警備員が駆けつける仕組みで、現日立電子に依頼してシステムを構築した。人による警備はコストが高く利用が限られる。幅広く「安全」を提供するには効率的なシステムが必要と考えたことによる。
顧客はまず、銀行に的を絞ることで信用を得、他の顧客の拡大につながると考えた。しかし、当時は宿直がいた為全く契約はなく売り込みも最も難しいところであった。最初の顧客は、三菱銀行であった。

設立12年目の1974年に株式を上場し、スエーデンのソーレンセン氏との関係は主導権をめぐる問題は上場までに円満解決した。

1983年12月、日本警備保障からセコム「(Security)と(Communication)の頭文字」に変更した。日本警備保障の社名では、警備という業務のイメージが限られるが、情報通信ネットワークを築き安心を中心に教育、医療、健康などのサービスを幅広く提供する「社会システム産業」を目指そうと考えていた。

1989年(平成元年)には、「社会システム産業元年」を宣言している。「社会システム産業」の発想は、機械警備の契約が増えて保有する電話回線が増えたことによる。回線を実際に使用する時間は1日のうち30秒程度に、あとの23時間59分30秒はあいている。この回線に何か載せることができないかを考えた。実際には、現在も使いこなしていない。 しかし、回線の有効利用を考えぬいたことが、幅広い発展を生み、新しい事業につながっていった。CATV(有線テレビ)宮城ネットワークを設立し、岡山、新潟に広げることができた。現在CATVは娯楽番組が中心ですが、飯田氏の狙いは「豊かな生活に役立つ情報を双方向で提供するものにしたい」というもので、宮城では近く黒字化できる見通しとのこと。

医療事業への参加
医療事業をやりたいと考えはじめたのは、約20年程前、当時、小さな子供だ夜に引き付けを起こしあちこちの病院を回ったけれども見てもらえず死んでしまったという事件が何度か新聞に載り、新たな医療システムを作ろうと考えていた。1988年と1989年に米国で医療関連事業をおこなう会社を2社買収しノウハウを取得した後売却した。
「在宅医療を進めるには、医師法、保険など法的な壁がまだあります。いままで、600人ほどのお客さんが喜んで利用しています。過程で治療を受けたいというニーズは間違いなくあります。規制の壁はおのずと取り除かれます。豊かな社会とは、選択肢の多い社会と思います。」と飯田氏は語る。

社長交代と会長退任
1997年6月、飯田氏および戸田氏は、会長および社長を退任し最高顧問にとなった。

セコムの広報の著した著作によれば、次のような特徴を持っているとのことである。

新規事業の選択に当たり、「オリジナリテイ」「独自性」を重視している
止めないでやり抜く
挑戦する風土
ノウハウを社内に蓄積
経営理念「正しさの追求」と「卓越性の追求」である
フラットな組織、または文鎮組織
人、資質があり意欲のある普通の人を採用


「社会システム産業」を目指して、次の事業を考えている。

安全管理系 セキュリテイ・システム、ビル・コントロール・システム、CDコーナー自動運行管理システム、老健施設業務支援システム
情報系 VANやCATV、イアンターネット接続サービス、インターネット構築、植物生育システム
医療サービス系 在宅医療、在宅介護、自己健康管理システム、調剤薬局
教育系 コンピュータ学習




出展:セコムホームページの飯田氏の回顧録/広報の著作/財務情報はホームページより入手


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