小中千昭『ホラー映画の魅力 ファンダメンタル・ホラー宣言』(岩波アクティブ新書)


1.『リング』『呪怨』の怖さ
・ 恐怖映画にとってのロジカルな解決はカタルシスに繋がらない。
『リング』に登場する袋かぶった男は、理解不能な不条理な存在であるゆえに恐ろしい。
『呪怨』では、断片的な「恐怖のスケッチ」がブツリ、ブツリと繋げられていき、最終的に「何らかの主たる縦軸」がおぼろげに浮かび上がる。観客が他人に伝えたくなるような恐怖を生み出している。 ・ 著者自身は、90年代の初期のホラー・ビデオでは、恐怖を生み出すルーティンを意図せずに作成。
『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』の怖さ
†ドキュメンタリー・スタイルがもたらすリアリティ(=疑似ドキュメント)。
†画面に映っている登場人物(作品内ドキュメンタリー作家自身)の、実際に感じている(かのような)恐怖を連綿と映し出しているから(恐怖は伝播する)。

2.恐怖の記憶
・恐怖映画(『カリガリ博士』('19)『吸血鬼』('32))が勃興期より作られていたのは、なぜか?(本書では、掘り下げられない)
1.人はアプリオリに恐怖を求めている。
2.ホラー物語が映画に適していた。
・ 何が映っているかに映画への関心がシフト。
・ いかに日常では見られないものを映し、観客の代価を得ようとするか。
・ ファンダメンタルなホラー映画とは、初めてだけに何を見ても怖がったような黎明期のそれにはかぎらない。
ジャック・クレイトン『回転』('61)(本物の幽霊を見せられたかのような印象)。
ロバート・ワイズ『たたり』('63)(人を恐怖させる音の元型)。
・ 異状の発生する場所をひとつの家に固定するという普遍的な設定。
『エクソシスト』(「怖さ」ではなく、生理的な「嫌悪」だという指摘)。
『ヘルハウス』(ベラスコという怨霊を、実際にはまったく姿を見せないままに、はっきりとした実在感を見た者に与える)。
・ 映っているのは怖がっているリアクション。
・ 「怖さ」とは段取りである。
・ ショッカー・シークェンス。そこに至るまでのタメ(観客の注意力を高める静寂)、異物出現のタイミング、そしてそのショック場面を画面内で体験する俳優のリアクションのタイミングが肝要。
・ ショッカー・シークェンスが「怖い」というのは錯覚。

スプラッター映画はファンダメンタルか
・ オカルト=超自然の要素を廃し、不条理な殺人鬼による凶行へ。
・ いかにリアルに、突飛で残虐な殺され方をするか。
・ 次は自分が殺されるかもしれないと恐れる緊張感が、このジャンル作品の主な牽引的エモーション。→これは「サスペンス」と呼ぶべき。
・ 大きな音だけで脅かす。
・ スプラッターのもたらすエモーションは「サスペンス」であり、「怖さ」ではない。
→サスペンスと怖さは両立しないの?
・ ゴア・シーンは怖いのではなく、嫌悪。
『エイリアン』。エイリアンをハッキリ見せない。→怖い。
・ ジェイソンやフレディの活躍は観客にとって楽しい。
・ 80年代以降、ファンダメンタルな怖さを追求したものは見られなくなる(『ヘルレイザー』などの秀作あり)。
・ ホラー映画は、さまざまな表現をおこなう脱ジャンル的な場となった。

3.特殊脚本家の誕生
著者の重ねたおびただしい実作の中で学んだことを紹介。→「本当に怖い映画」を作るにはどうしたらいいか。
『ハウリング』『ピラニア』『アリゲーター』(人間味あふれる人物像、綿密な伏線)脚本家ジョン・セイルズ
   →脚本がいかに映画の名かで支配的な力を持つかを認識。
『邪願霊』で初めてホラーの脚本を書く(疑似ドキュメンタリー、実話怪談本にある事象の寄せ集め)。
『ほんとにあった怖い話』の脚本における「リアリティ」を生むための工夫。
 †監督・演技者に細かい「てにをは」や言い回しの自由な改変を許す。
†明確な起承転結、「オチ」、登場人物についての細かな説明を排す。
『霊のうごめく部屋』。開いた襖の向こうに男。
 →本当に怖いものを見たとき、人は即座に悲鳴を上げるか?(硬直)
『夏の体育館』。幽霊のぼんやり感を、ピンぼけによって表現。→黒沢清『回路』でさらに発展させる。

4.恐怖の方程式 <小中理論とは何か>
・<小中理論>(高橋洋・黒沢清が命名)・・・実話に基づく恐怖映画について、脚本でなし得ることの著者の経験則的な事柄の蓄積。
A. 脚本構造について
†恐怖とは段取りである
  観客が恐怖を抱くまでには、段階的な情報を提示していく必要がある。
†主人公に感情移入させる必要はない
「こういう人間はいる」という感触が大事。
†因縁話は少しも怖くない
オチ・理由・説明をつけない。恐怖とは不条理である。
†文字は忌まわしい
 ドラマ的なテンポを寸断することが、疑似的なリアリティを生む。
†情報の統一は恐ろしい
 複数の人物が同じ体験、あるいは、ひとつの事柄についての記憶が、人によって異なる。
†登場人物を物語内で殺さない
語り手は死なない、特異な死に方はしない。

B. 脚本描写について
†イコンの活用
 浴槽の底についた黒髪、壁に残る手形、・・・。視覚的に伝える怖さは強い。
†霊能者をヒロイックに扱ってはならない
 霊能者による説明は「因縁話」におさまる。不条理ではなくなる。
†ショッカー場面はアリバイだ
ショッカーは「びっくりする」という「サプライズ」であり、「怖さ」ではない。
ヒッチコックトリュフォー『映画術』によると、
・サスペンス・・予兆、予告がなく、観客に驚きをもって提示されるもの。
・サプライズ・・同時並行で起こっている出来事とのカットバックが生成するハラハラドキドキ感。
サスペンスでもサプライズでもない「怖さ」とは?
†幽霊の「見た目」はありえない
 人物を繁みの中からじっと見つめるカットバック。サスペンスであり、怖さではない。
 「ホラー映画でよくある」場面は、ファンダメンタルなホラーにあってはならない。
†幽霊はどう見えたら怖いのか
 偶然に作られた有意の形、場所の不自然さ、大きさの不自然さなど。
†幽霊ナメもやってはならない
 恐怖の衝動にかられているキャラを幽霊の背中越しに写す「醒めた」視点は怖さが減じるのでダメ。
†幽霊はしゃべらない
 「返せー、返せー」などと言わせると肉体感が強調されて怖くない。でもテープやビデオに入り込んだ声は効果的。
†恐怖する人間の描写こそ恐怖そのものを生み出す
 本当に怖いものと対峙したとき、「キャー!」以外に人はいかなるリアクションを取るのか?
『ジョーズ』。出来事の認知が遅れるために、リアクションが遅い。
・あらぬことを口走る。脚本でこれをいかに表現するのか?→「あああぅぅぅくくくがあああああっっ」
・心理描写を細かく書くべきでない→過剰な人物描写→監督に嫌がられる。
・最近は小説のようなト書き。想定した以上の作品に仕上がってほしい。
†つまり、本当に怖いのは幽霊しかないのだ
・「一番怖いのは人間の心だ」といった物言いに反発。暴力的なまでの不条理。

5.リアリティについての諸問題
映画にとって必要なのは「本当のこと」ではなく、「本当に見えること」。ホラー映画ではそれが特に重要。ホラーにとって必要なのはドキュメンタリー性である。

映画記号学への帰還
バルト・・・モンタージュ(編集)とディープ・フォーカスを対峙させて映画を分析。
メッツ・・・映画が万人に共有する言語体系をもたないながらも、言語活動的な働きで物語を伝えることを指摘。
・ホラー映画は、「恐怖」というエモーションへ移行させるという特定の目的上、記号学で解析しやすい。
・物語内リアリティがファンダメンタルな「怖さ」を生成する。

『フレディVSジェイソン』に<小中理論>を適用すると・・・
・ 恐怖に至る「段取り」は何かしら踏んでるようである。
・ 登場人物は「いかにもいそう」ではある。
・ ジェイソン=クリスタル・レイク云々、フレディ=エルム街で町民に焼き殺されて云々、完全に因縁話。
・ 「何年後・・・」といった類の文字はたしか使っていた。
・ 情報の統一。・・・よくわからない。
・ ベッドごと体を折られるなど、特異な死に方である。
・ イコン・・・よく覚えてないが、あった気がする。
・ 霊能者は出てこない。
・ ほとんどすべてサプライズである。
・ 庭の繁みからのぞいているシーンがあった(=サスペンス)。
・ ジェイソン・フレディとも現れ方はぼんやりしていない。実在である。
・ 幽霊ナメだらけ。
・ フレディはよくしゃべる。ジェイソンはしゃべらない。
・ リアクションは「きゃー!」が多い。アホキャラがジェイソンを怖がらずにバカにするというのがある。

『フレディVSジェイソン』が怖くない理由は<小中理論>でずいぶん説明できる。
フレディの「夢に出現する」という設定が、個人的には怖い。

まとめ
本書の主張を受け入れると、ファンダメンタルな「怖さ」とは「本当っぽい不条理」のことのようだ。しかもここでいう「不条理」とは、たとえば仕事からのいつも帰り道で、背後から走ってきた飲酒運転の車にひかれて死んでしまうといったありそうな人生の「不条理」のことではなく、幽霊が現れしかも現れた理由は分からないというありそうもない不条理を指していると思われる。そういう、現実にありそうもない不条理が「本当っぽい」とはどういうことなのか(高橋洋との対談で出ているフィクションとしてのリアリティと現実という問題)。本書では、過去の映画やドキュメンタリー作品による具体的な事例をあげるばかりで(死よりも怖いのは貞子)、説明不足に思えた。とはいっても「本当っぽい不条理」があることも直感的には分かる気がする。
『フレディVSジェイソン』は怖くなかった。<小中理論>を踏まえながら、それを破ってファンダメンタルな「怖さ」を提示しているのは、最近ではわたしは黒沢清だと思う(過去では、たとえば鈴木清順の『ツィゴイネルワイゼン』)。最新作『ドッペルゲンガー』では、役所広司のドッペルゲンガーが出現した「理由」は最後まで明らかにされない。<小中理論>によれば、この点が不条理で「怖い」のだ。けれども、ドッペルゲンガーを「幽霊」と同等のものと見なせるとすれば、それはぼんやりとしておらず実在の人間と同じ仕方で現れているのであり、しかもそのことが<小中理論>に反して、わたしには怖かった。<小中理論>は当たっているところもあるのですが、黒沢清はそれを超えたところで真の怖さを生み出していると思えます。『ドッペルゲンガー』や一つ前の『回路』には、他にいくつもの「怖さ」が含まれていると思いますが、今回の議題からは外れるので、ここまでにいたします。


戻る
ホーム