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戻る映画レビュー(18)
Movie Reviews
’98・米
AMERICAN HISTORY X/アメリカン・ヒストリーX/★★★★☆
カラー・120分
監督:トニー・ケイ
キャスト:エドワード・ノートン/エドワード・ファーロング
高校生のとき偶然同じ飛行機に乗り合わせたアメリカで暮らす私と同世代の日本人の青年から聞いた話によると、米国の公立高校には学校に拳銃を持ってくるような奴はやはりいるらしい。校内での喧嘩などは日常茶飯事。あるいは友人に「パーティーがある」と誘われて行ってみるとそれがギャングの集会で死ぬ思いをしたとか。米国の暗い側のイメージを想起させるこの種の情報は日本のニュース・事件系の番組等を通じてしばしば見聞きするが、メディアの情報ではどうも「実感」というものが沸かない。しかし実際に向こうの高校に通っている生徒の体験談となるとこれは誠に生々しいもので、もう7、8年も前の話だがこの映画を見ながらそのときの機内での対話の記憶が鮮明に甦ってきたのである。注意すべきは近年日本で少年犯罪が取り沙汰されることが増えているが、アメリカ社会に巣食う病的な犯罪への意志は日本のそれとは要因が全く異なることである。「貧困」と「人種問題」。映画ではこれらが生み出す怒り・憎しみの暴走がデレク(エドワード・ノートン)の白人至上主義、ナチズムへの傾倒として象徴化される。刑務所暮らしを通じて怒りと憎しみは結局家族や自分を不幸に巻き込むだけでしかないことに気づきデレクは改心する。だが過去の個人の過ちは事後の修正では取り返しのつかないことが映画のラストで残酷に示される。デレクの弟のダニー(エドワード・ファーロング)が兄の話を聞いて簡単に更生してしまうあたりの展開が安易すぎるといった意見もどうせありそうだが、我々としてはアメリカには後進国とは違う捻じ曲がった「貧困」と「人種問題」が「ある」というその事実にこそ目を向けるべきなのだろう。まじめくさった感想になってしまったがオスカーにノミネートされたエドワード・ノートンの熱演をはじめこの映画にはそう思わせるだけのパワーが漲っている。その証拠に映画が終わって館内の各所からすすり泣く声が・・・。2時間は短すぎるので★は満点にはしない。(5/2)
’60・仏
MODERATO CANTABILE/雨のしのび逢い/★★★
モノクロ・105分
監督:ピーター・ブルック
キャスト:ジャンヌ・モロー/ジャン・ポール・ベルモンド
カンヌ映画祭主演女優賞=ジャンヌ・モロー
’90・英
THE SHELTERING SKY/シェルタリング・スカイ/★
カラー・138分
監督:ベルナルド・ベルトリッチ
キャスト:デブラ・ウィンガー/ジョン・マルコヴィッチ
’92・米
カラー・202分
監督:スパイク・リー
キャスト:デンゼル・ワシントン/アンジェラ・バセット
自分が「正しい」と信じてやっていたことが些細な出来事あるいは思いがけない人の忠告で俄かに怪しげな様相を呈し始めたとき、そこですぐさま己の考えを改め別の道を進むか、それとも信念を貫いて同じ道を歩みつづけるかの「判断」は大きな問題となる。そこでその人の度量・能力・器が試されるのだが、『アメリカン・ヒストリーX』も『マルコムX』もともに前者、つまり自身の誤り・盲点を受け入れる勇気なのであった。しかるに果たしてその判断が吉と出たかどうかを事後的に判断するとこれは難しい。たしかにマルコムXは黒人解放に向けて一つの行動を示しはした。だが同時に反発者による報復が自分や家族に及び、最終的には演壇の上でしかも妻と子供たちの眼前で数多の銃弾を浴びて暗殺されるのだ。(5/7)
’98・ブラジル
CENTRAL DO BRASIL/セントラル・ステーション/★★★☆
カラー・111分
監督:ヴァルテル・サレス
キャスト:フェルナンダ・モンテネグロ/マリリア・ペーラ
この映画の子役が評判だったけど別に演技うまくないぞ。ポルトガル語はまったく分かりませんが、なんとなく棒読みっぽい印象を受ける。父親探しのロードムービーということでそれなりにセンチメンタルなんですが、少年の母親の死に方がいささか不自然。ただの不注意でバスに轢き殺される。(5/12)
’63・ブラジル
モノクロ・105分
監督:ネルソン・ペレイラ・ドス・サントス
キャスト:アッチラ・イオリオ/マリア・リベイロ
「ブラジル映画祭」で鑑賞。ブラジル北東部の極度の貧困生活を一切の抒情性を排したリアリズムで描いていますが、文化としての他者との出会いがわれわれに惹起する「無理解」がただただ退屈さとして析出するばかりなのです。眠い。(5/15)
’99・スペイン
ALL ABOUT MY MOTHER/オール・アバウト・マイ・マザー/★★★★
カラー・101分
監督:ペドロ・アルモドバル
キャスト:セシリア・ロス/ペネロペ・クルス
アカデミー外国語映画賞ある時期は誰にとっても最も身近な存在である「母親」についての話なのに、どこか感覚的にピンと来ないのは私が男であり、生涯「母親」にはなれないからなのだろうか。
映画にフェミニスト的な視点を持ち込もうとする動きは60年代半ばから始まり、昨今ではジェーン・カンピオンやシャンタル・アケルマンといった女性映画監督によって実践されているが、このきわめて「女性的」な作品の監督ペドロ・アルモドヴァルが男性であることは興味深い。むやみに美化され、とかく男との関係から描かれる映画の男性中心的な女性像への反発は女性監督しか抱いていないということはないはずで、アルモドヴァルはおそらくその代表格と言える。今作で彼は「母親」という女性の社会的な役割に焦点を合わせることで、男性の側から女性像の脱・美学を試みたように思われる。
映画はさまざまな角度から「母親」を描いている。マヌエラ(セシリア・ロス)には1人息子のエステバンがいるが、夫とは子供が幼いうちに別れている。家庭を支える母マヌエラは病院で臓器移植のコーディネーターをしており、息子は外で働く「自分の知らない母」の姿に常に好奇心を抱いている。ところがエステバンの突然の事故死。「子供を失った母」となったマヌエラは仕事を辞め別れた夫を探す旅に出る。旅の途上で出会う修道女ロサ(ペネロペ・クルス)はマヌエラの元夫ロラとの間の子供を身篭っており、これから「母親になる」存在だが、HIVに感染していることが判明し「生」の誕生と同時に「死」への恐怖にも晒される。そんなロサの深刻な状況を癒すようにオカマの娼婦アグラードの明るい性格、派手な相貌がいかにも「アルモドヴァル的」で楽しいが、ロサの葬儀で初めて登場するマヌエラの元夫ロラがオカマであるという事実は単に「アルモドヴァル的」として片付けるべきではない。ここで問題は本文の冒頭へ戻る。私が男であり、決して母親にはなれないことに起因すると思われたこの映画に対するある種の無理解・違和感は、映画の終盤、喫茶でマヌエラと一緒に死んだロサの生んだ赤ん坊を女として生きる男ロラがあやすシーンで俄かに揺らぎはじめる。アルモドヴァルにとって、女性であることは母親であるための絶対条件では必ずしもないようだ。(5/24)
’59・仏
LE DEJEUNER SUR I'HERBE/草の上の昼食/★★★☆
カラー・92分
監督:ジャン・ルノワール
キャスト:ポール・ムーリス/カトリーヌ・ルーベル
ブラックユーモアといった趣でわりとおもしろい。59年というとモノクロからカラーへの移行期だと思うのですが、画像が粗くどうも色がマッチしてません。監督は印象派の画家オーギュスト・ルノワールの息子だか孫でこちらも巨匠。(5/28)
’76・グルジア
モノクロ・98分
監督:オタール・イオセリアーニ
好きな作家である阿部和重が以前あるアンケートの「好きな映画」という欄にこの監督の作品を挙げていた。パンフによるとイオセリアーニはジャン・ヴィゴ、ボリス・バルネット、ジャン・ヴィゴ、ジャック・タチらの反骨精神を敬愛する反時代的でおおらかで詩的な映画作家だそうです。この作品は都会(といってもグルジア国内)の室内楽団が練習のために田舎町の家にしばらく滞在するという話。豚や牛や鶏といった家畜に囲まれ質素な生活をともにしながら、ベランダで演奏の練習を始めると自然と子供たちが集まってきたりと雰囲気は至ってのどかです。旧ソ連映画ですがタルコフスキーやソクーロフのような張り詰めた静謐はなく、農民たちの些細な口喧嘩など日常的喧騒の描写が豊富。(5/30)
’99・米
AMERICAN BEAUTY/アメリカン・ビューティー/★★★★☆
カラー・122分
監督:サム・メンデス
キャスト:ケビン・スペイシー/アネット・ベニング
アカデミー最優秀作品賞、主演男優賞=ケビン・スペイシー退屈な日常。こう感じる人は多い。そして日々事件とロマンスと充実感に溢れた日常を送っている人も世の中にはいるという根拠のない夢想を頭に描き、人はそれと自分の生活を比較する。そういう充実した日常に憧れるぶんには一向に構わないのだけれども、「憧れ」が徐々に「妬み」に変わってゆくのが厄介なところ。そういう生活に対する不満・モヤモヤ感をいかにして解消するのか。結論は単純で充実しきった日常なんて世の中どこにも存在しない。「普通の日常」ですらあるのかどうか。でもまさに今この状態もよくよく味わってみると「Beauty」に溢れてるじゃん!退屈でもないじゃん!そんなことを説教にならないようシニカルに描いております。秀作。(6/1)
’99・日本
カラー・100分
監督:SABU
キャスト:堤真一/松雪泰子/安藤政信/大河内奈々子/大杉漣
葬式で祭壇に据えられた写真の中の故人が斜に構えてキメているという発想のセンスには感嘆するほかない。つづけて遺体の胸に入ったペースメーカーが未だ作動中で、火葬の際に爆発する恐れがあるので主人公がその摘出を迫られるというのはちょっとやり過ぎかと思ったのだが、それがあとの喫茶店でのギャグの導火線になっていて、やはり唸らせられる。
ありふれた日常を「微妙に」ずらすことで生じる「違和感」がナンセンスなギャグの本質である。この作品の笑いの源泉も全てこの「違和感」に尽きてはいるけれども、ただ「違和感」の拵え方がおもしろい。過去のあらゆる典型的なシーンを思いがけない形で再利用するのだ。例えばよく昔の刑事ドラマなどで爆弾の時限発火装置を解除するというのがあって、最後の段階で2色のリード線が残り、そのどちらを切断するかは当事者に委ねられるというという緊迫のシーンがあった。死体からペースメーカーを摘出するシーンは爆弾処理の典型を意識しつつ形を変えて再利用しているわけだ。しかも情報では赤と緑2色導火線があるはずなのに、いざ開けてみると血に染まってどちらも赤色になってしまっているのであり、いずれを切断するかは作業者たちの決断に任せられる。確率1/2の結果は失敗でペースメーカーは爆発。粉みじんの死体を映してしまってはつまらない。そこで引きのショットで煙の立ち昇る棺桶の全体を捉えるのにとどめているあたりにも製作者の良識が伺えるのだ。こういった典型的なシーンの引用は作品のいろいろなところに見られるのだが、自分はそれほど気づかなかったけれども過去の映画作品の純粋なパロディも結構あったのではないかと思う。堤真一の篭るホテルの一室を機動隊のひとりが鉈で打ち破ろうとするシーンで『シャイニング』のジャック・ニコルソンを想起する人は多いだろうし、ラストで主人公が背後から狙撃されるシーンは『レオン』のラストのジャン・レノを彷彿させる。
笑った箇所をこうして列挙していけばキリがないのだが、笑いの一般論で饒舌になるのは気が引けるので続けることにすると、自分は死を覚悟した主人公の書く「遺書」に一番笑ったのである。主人公が「遺書」を書くことを「思い出した」のは、その前に自殺を試みたもののショットガンの銃口を口に含むと銃身が長いため引き金に指がとどかない。そうして一旦自殺を諦めたところで「そうだ。遺書だ。」と思いたって書き始めただけなのだが、まあこの程度のギャグはどうということはない。問題は遺書の内容である。「お父さん、お母さん、長い間ありがとうございました」という緩やかな出だしでまず観客を油断させる。そうして「ポチの散歩をお願いします」あたりから徐々に雲行きが怪しくなってきて「夜は8時50分にお願いします。でないと隣りの誰々さんのブルドッグが吠えてうるさいからです」「植木の水遣りも忘れないで下さい。夏は桜の木の"うどんこ病"に気をつけてください」といったくだりにいたっては抱腹絶倒、大爆笑しました。遺書に日常の些事の注意書きを綴ること自体は誰も思いつかないギャグというほどでもないかもしれないが、しかし「8時50分」や「うどんこ病」といった単語の纏う極度の「日常性」を察知し、それと「遺書」とのミスマッチの召喚する笑いを意識できるというのは間違いなく才能だ。
ラストのクライマックスが滑稽なのは言うまでもないのでもうこれ以上は書きません。
’73・米
AMERICAN GRAFFITI/アメリカン・グラフィティ/★★★★
カラー・112分
監督:ジョージ・ルーカス
近年のアメリカ映画では稀なドラッグ・犯罪のない青春映画。監督はジョージ・ルーカス!初めはこんなのを撮っていたのです。斯く言う私はなんと『スター・ウォーズ』を見たことがない。恥。(7/11)
’98・フランス=ロシア
モノクロ・142分
監督:アレクセイ・ゲルマン
知る人ぞ知るロシアの伝説的な監督アレクセイ・ゲルマンの新作(30年間に4本しか撮っていない。10年に1本のエリセに匹敵する。エリセと言えば『マルメロの陽光』がどこのビデオ屋にもねぇ!)。
世の中に足を踏み出すとそこがどこであれ場所・時代特有の「空気」というものがある。私はこの映画を渋谷で見たのであるが、誰もが感じるように渋谷には渋谷の「空気」というものある。で、渋谷の「空気」を生み出しているものは何だろ?って考えると、駅前にはまずオーロラヴィジョンがえーと・・3つか?ともかくでかいディスプレイがスクランブル交差点を見下ろしており、アヴァンギャルドな映像、音が乱舞。地上ではキャッチの男、何か知らぬが配り物をしている派手な風体の女、あるいは普通にナンパする男、それを待つ女、コギャルといった類の若者が目立つには目立つけれども、彼らだけが渋谷の雰囲気を生み出しているのではもちろんなくて、そこには当然ながらサラリーマンやフリーターや学生や主婦や幼児や老人や外国人やホームレスなど普通の人も沢山いるわけで、そういうありとあらゆるものがミックスされた挙句に「渋谷の空気」が発生するらしい。そして芸術家はどうにかしてこの「空気」を人々に伝えたい。それじゃあと言って、例えばカメラをセンター街に設置、集めた映像を適当に編集してドキュメンタリー風に仕上げてみたところでおそらく映像から「渋谷の空気」は抜け落ち退屈なものとなる。
ゲルマン監督はスターリン時代のロシアの喧騒のムードを「想像力」でもって見事に視覚化したのであります。(7/12)
’97・アメリカ
モノクロ・85分
監督:ダーレン・アロノフスキー
キャスト:ショーン・ガレット/マーク・マーゴリス/スティーブン・パールマン
サンダンス映画祭最優秀監督賞、インディペンデント・スピリット賞初脚本賞世界の根源は数字だ。という妄想に憑かれた男の物語。テクノ系の音楽とモノクロ映像、カメラワークがスタイリッシュでいいのですが、全体としては中途半端な謎解きものに終わっている気がした。(7/25)
’99・アメリカ
BOY'S DON'T CRY/ボーイズ・ドント・クライ/★★★☆
カラー・119分
監督:キンバリー・ピアース
キャスト:ヒラリー・スワンク/クロエ・セヴィニー
生物学的な性差が女性の社会的な地位あるいは「女らしさ」なるカテゴリーまでをも決定し、そのことが「一部の人間」、この映画で言えばブランドン(ヒラリー・スワンク)を不幸にしてしまう。問題となるのは「一部の人間」と表現したことからも分かるように、性同一性障害の人々はそうでない人々よりも少ないマイノリティであるということなのだ。少数だからといってそれが多数派から排除されたり、差別されたりする必然性はむろんないのだが、少数派の意見、主張を優先する所以も同様にないわけである。また「同じ人間である」というテーゼの元にで敷居を取り外そうとすることは、アルモドヴァルの作品などを通じてしばしば指摘されるように、男性にも女性にもない同性愛者独自の価値観、世界観をヘテロのそれへ統合してしまう暴力と化すだろう。差別はダメだが、差異は保持されねばならぬ。(8/23)
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