ファンタジスタ


先日引退したばかりの、Robyという愛称で親しまれ永遠にして、
彼の代名詞であるといって過言ではないファンタジスタ。
そのプレーの一つ一つは芸術としか言いようがない。
決してBaggioのゴールに“スーパー”と呼べるものは数少ない。
だがしかし、その一連のボールをゴールに流し込むという芸当を
芸術に見せてしまうのがBaggioなのだろう。
 

1967年2月18日、霧の町カルドニーニョにその天才は生を受けた。10人家族という大家族の中にRobertoという名を持つ少年はいた。父は工場を経営していたが、決して裕福な家庭とは言いづらかった。
Robyは、12歳になる頃当時はC1だったラオロシ・ヴィチェンツァに所属し、その頃から光るパスセンスやゴールの巧みさなどという点で高い評価を受けていたという。18歳という十分独り立ちが出来る年齢になると、花の都と呼ばれるイタリアの中でもローマに並ぶ由緒ある街・フィレンツェに彼は住居を移した。しかし、Robyのフィレンツェのスタートは、順風満帆とは行かなかった―。
後に大きな影響を及ぼすこととなる右足靭帯損傷という手術も辞さない怪我を負ってしまうことになる。その後も度重なる怪我を負い、Robyはまともにプレーすることもままならず、フィレンツェでのスタートの2シーズンは苦い経験を味わうだけのものだった。
 
だが、怪我を乗り越えたRobyの87-88シーズンは彼の真骨頂を見る事となる。由緒あるスタジアム、サン・シーロでのミラン戦に先発出場したRobyは、後半も終盤に差し掛かる頃センターサークル付近でボールを持つと、ドリブルで独走しそのままゴールにボールを流し込んでしまった。まだ黄金期を迎える手前頃ではあったが、ミランにはファン・バステンや、フリットがいた。Robyはそのチームを相手に、サン・シーロで主役となってしまった。このシーズンで、フィレンツェはRobyを我等のアイドルと認めるだけの活躍を彼は成し遂げた。
翌年からは念願のアズーリデビューも飾るなど、順調にフィオレンティーナでキャリアを重ねていくRoby。しかし、サッカーの神は常に非情な御方だ。Robyはフィレンツェの街を去った。しかも、よりによって行き先はトリノ―。フィオレンティーナと因果関係にあるユベントスの本拠地とする街であった。悲しく、そして怒りに満ちた別れであった。フィオレンティーナで挙げたゴールは39。あと161―。
 
色々と世間が騒がしくRobyにスポットライトを当てていたが、その騒音も気にせずRobyは大舞台に登った。母国で開催されるW杯―。決して満足のいく結果ではなかった。しかし、本人とは対照的に周囲のRobyに対する評価は格段に上がっていた。三戦目のチェコ・スロバキア戦に先発すると、果敢にドリブル突破を仕掛け、三人を抜き早速大会初のゴールを見舞った。その後スキラッチと共にピッチに立ったRobyは、この相棒と共に華麗なプレーの数々を披露。アイルランド戦においては、次のアルゼンチン戦に備えて温存させようとした監督に反対の声まで上がったほどだ。
マラドーナ率いるアルゼンチンに結局は敗れたが、それでも三位は獲得。本人にしてみれば、もっと上に行けたと思っただろう。しかし、Robyはその三位以上に値する内容のプレーを多くのファンにプレゼントしてくれた。しかし何ともしっくりこなかったのは、その背番号か・・・。「15」。Baggioらしくないといってしまいそうになる。一度目の挑戦は、満足が行かずとも、自分の存在を大きく示す挑戦となった。
 
ユベントスユニフォームを着て、ピッチで見せたBaggioのプレーは正に芸術だった。結果としてスクデットは一度しか取れなかったが、それでも、イタリアに与えた彼の芸術的なプレーは多くの人を魅了した。92-93シーズンは司令塔として、そしてストライカーとしてピッチに君臨し、21ゴール。チームもスクデットは成らなかったが、UEFAカップは優勝。そして、Baggio唯一の個人タイトル、バロンドールを手にすることが出来たのだ。Baggioがユベントスで挙げたゴールは78。あと83―。
 
全盛期を迎えていたBaggioは二度目の大舞台に臨んだ。アメリカに乗り込んだアズーリの面々は、顔ぶれが本当に豪華であった。守備ブロックはカテナチオというにふさわしい面々で、グランデミランの一員、バレージ・コスタクルタ・マルディーニ・タソッティ、アズーリ屈指の守護神パリュウカ。中盤もアルベルティーニやドナドーニ、コンテ、Dバッジョといった燻し銀をそろえ、前線はBaggioをはじめとして、シニョーリ、カジラギ、マッサーロとまた豪華であった。そして監督はグランデミランの根本を作った男、サッキ。しかし、このサッキが、Baggioと諍いを起こす・・・。それは二戦目、ノルウェー戦。パリュウカが一発退場となり、サッキにはGKとフィールドプレーヤーを交代せざるを得なくなった。しかしそこでサッキが選んだフィールドプレーヤーは、誰あろうBaggioだった。決して怪我をしていたわけでもない、疲労が来ていたわけでもない。チーム随一のカンピオーネのBaggioが何故・・・。そしてBaggioは今尚語り継がれる台詞をサッキに対して放った。
「Ma questo e impazzito?」
―気でも狂ったのか?―
 
ただ、そうそうサッキもBaggioを外せなくなる活躍を、Baggioは成し遂げた。ナイジェリア戦で2ゴールを挙げると、Baggioはたちまちイタリア中で英雄と仕立て上げられ、イタリア国民はサッキを批判した。ただ、Baggioの体はこの頃から悲鳴を上げ始めていた―。ただでさえ、アメリカの夏は暑いというのに、ピッチで精一杯走り回り、そして長時間移動。これでは並の人間では死んでもおかしくはないだろう。
そしてイタリアは決勝に上がった。Baggioは4ゴールを挙げ、勝利に貢献し続けた。臨む相手は王国ブラジル。Baggioは相手のドゥンガ、マウロ・シウバの徹底マークに遭い、守備陣もロマーリオ・ベベットを中心とするブラジルの分厚い攻撃にバレージを中心とする守備ブロックも手を焼いた。何とか凌ぎ切って、どうにか延長までこぎつけることが出来た。そう、どうにか、だ。イタリアは既に限界だった。そして延長も凌ぎ迎えたPK戦、イタリアは二人が外して、ブラジルは一人が外して、命運はBaggioに委ねられた―。ボールにキスして、PKスポットにボールを置き、ゆっくりと離れ、ゴールへと顔を向けた。足は震えていた。呼吸も荒かった。そして、ゆっくりと助走を取り、ボールへ向かい、右足を振りぬいた!・・・・・・神は残酷だった。ブラジルのGKタファレルは、そのボールの行方を見届けると、両手を上げた。ブラジルのメンバーはタファレルに向かって抱きつき、歓喜の渦に浸った。その傍らで・・・Baggioは立ちすくんでいた・・・。ボールは無情にも、白空に消えて、バーを越えて転々として・・・。Baggio二度目の挑戦は、劇的に、そして悲しく幕を閉じた・・・。
 
W杯が終わり、Baggioはクラブで練習に励んだ。しかしだ、トリノもまた、Baggioにとって安息の地ではなかった。原因の一つはアレッサンドロ・デル・ピエロの存在。この若く、自分と同じピッチで芸術を描く天才肌のプレーヤーは、Baggioの地位を脅かすだけの実力があった。そしてもう一つは・・・Baggio一生の天敵であるマルチェロ・リッピ。彼は極端にBaggioを嫌った。そして彼はフロントの以降を汲み取り、Baggioをほとんど試合では使わなかった。そう、フロントはBaggioを捨てる覚悟だったのだ。そうした流れにBaggioも気づいていたのだろう。シーズンが終わると、今度はトリノからミランへと住居を変えたのだ。
 
ミランでのBaggioを待ち受けていたのは怪物だった。そう、今尚アフリカ最高のプレーヤーと言われ止まないリベリアの怪人、ジョージ・ウェアが居た。Baggioはこの男の相棒となり、活躍。出場機会こそそれほど無かったが、決してBaggioが輝いていなかったとはいえない。そして、ユベントス時代には味わうことの無かった自らも加わったというスクデットを勝ち得ることが出来たのだ。
だが、忘れてはならない。Baggioはどこか神に見放された人間だということを・・・。アリーゴ・サッキ―。どこかで聞いた名前ではないだろうか?そうだ、94年W杯でBaggio変えた男だ。二人の仲が良いなどと間違っても言ってはいけない。むしろ最悪といっても良いだろう。もはや言うまでも無く、Baggioのミランでの指定席はウェアの隣でもない、慣れ親しんだセカンドトップでもない。トレクァルティスタでもない。ベンチだ。ミランで挙げたゴールは12。あと71―。
 
もはやBaggioが恋人アズーリとめぐり合うことは無いように思えた。クラブを追い出された男が、代表に返り咲くということはどう考えても、だ。しかし、そっぽを向き続けた神はきまぐれか、それとも果たして手を差し伸べようとしたのか・・・。Baggioはボローニャのユニフォームを着てピッチに立っていた。御馴染みのポニーテールをバッサリと切って、生まれ変わったようにゼロからの再出発を始めた。ウリビエリとの確執などもあったは物のだ、そこで見せたBaggioのプレー。正に全盛期そのままであった。アズーリとの関係も元の鞘に戻ることが出来た。ボローニャで挙げたゴールは22。残り49―。
 
恋人アズーリの下に帰ってきたBaggioだったが、その関係を修復するのに待ったを掛けた男が居た。ユーベのシンボルとなり、いまやカルチョの世界を牽引する男、デル・ピエロ。Baggioにとって終生のライバルといって差し支えないかもしれない。フランスで待ち構えていたBaggioの指定席はベンチだった。このシーズン、Baggioに並ぶといってもいい活躍をしたデル・ピエロ。そして若さもあり、大舞台の経験も積んでいる。いくらBaggioといえど、この男の牙城は最後まで崩すことは出来なかった。
だが、Baggioにもチャンスは巡ってくる。チリ戦にデル・ピエロの怪我によって先発の機会が与えられたBaggioはヴィエリへのアシストで、チェーザレ・マルディーニの期待に答えて見せた。だが、イタリアの開幕戦の弱さは半端無いほど、弱い。サラスに2ゴールを決められ、残り時間もわずかとなった・・・。イタリアが負ける―。観客、テレビに食い付いていた人々全員がそう思ったであろう。しかしBaggioは魔法を見せてくれた。並の人間では到底出来ない魔法を―。審判が時計を見て、第四審判もロスタイムの掲示をしようとしていたところだった。Baggioはボールを受け、右サイドに流れる。すかさずチリのDFレジェスがマークについた。ゴール前は選手たちでひしめき合っている。クロスを上げるのか?それとも自ら切れ込むか?観客の視線がBaggioに向いたその時、とんでもない行動に踏み切る。なんと右足で軽いチップキック―。ミスだったのだろうか・・・。レジェスはそれを軽くトラップし、クリアするだけで良かった。だが、彼にはそれが出来なかった。バチッ!!何の音かわからない痛烈な音がピッチに響いた。見ればレジェスは唖然としているではないか。そして審判も一瞬ためらった後、笛を吹いた。指した先はPKスポット。そう、レジェスは手にボールを受けたのだ。このPKをBaggioが冷静に決め、イタリアは執念で勝ち点1を手にすることが出来た。
結局その後はデル・ピエロとの併用を受け入れたBaggio。イタリアも優秀なタレントを揃えていたにも関わらず、大会王者フランスに敗れてしまった。三度目の挑戦は寂しく終わってしまった・・・。
 
 
その後、インテルに救世主として移籍。ロナウドと見せるいわゆるRo-Roコンビにインテリスタは期待を寄せた。しかし、ここでもBaggioはまたも神に見放された。インテルで歯車がかみ合わずふがいない成績に終わり、Baggioは戦犯扱いまでされたほどだ。そして翌年には天敵リッピの招聘。これではBaggioもまたミランを去る決意を固めざるを得なくなってしまった。インテルにCLの出場権を与えるという何ともBaggioらしい置き土産を残していって・・・。インテルで挙げたゴールは9。残り40―。
 
Baggioが途方に暮れてしまった―。今までこんな事は無かった。フェレンツェから離れた時も強靭な精神力でユーベに貢献し続けた。ユーベを追い出されたときもまだBaggioは全盛期にあったからこそミランに移籍できた。ミランを追い出されても、ボローニャという中小クラブだったから移籍できた。だが・・・Baggioはとうに全盛期を過ぎてしまった。代表も久しく呼ばれなくなり、無駄な二年間を過ごしてしまったのだ。二年後に迫った日本と韓国で行われるW杯も諦めざるを得ないのか・・・。
やはり神はきまぐれだ。こういう不幸な時のBaggioに対してマッツォーネという名将を出会わせてくれたのだから。帰ってきた、Baggioが帰ってきた。全盛期のBaggioが。蒼と白―。チームこそ違えど、Baggioの永遠の恋人であるアズーリと同じ色であった。A残留を目指す悩めるチームに活気を与えたBaggioにはまた待望論があがった。Baggioを日本・韓国に!!誰もがそう願ったに違いない。直前の怪我がありながらも、驚異的な回復力でベストコンディションに戻して見せた。荷物持ちでも良いからと、Baggioらしくもない嘆願でトラパットーニに迫った。だが―アズーリが日本・韓国に連れて行くメンバー23人のアタッカンテの名前の中に、Baggioが含まれることは無かった。四度目の挑戦は、挑戦をする間も与えてくれず、終わってしまったのだ。
 
そして遂にこの時は訪れた。Baggio引退。動かしようの無い、事実だった。Baggioの足は限界に達していたのだ。だが、Baggioがやり残したことが一つある。セリエA200ゴール―。過去前人が4人しか成し遂げていない最高の記録にBaggioが挑んだ。あと7まで迫っていた。そして、一つ一つゆっくりとゴールを重ね、迎えたパルマ戦。ゴール前でボールをもらったBaggio。すかさずDFがチェックにかかる。そのチェックを得意のフェイントで切り返し、見事にかわした。そして渾身の左足が振り抜かれた!―ゴール!!―伝説を作った。スタジアムが沸いた。伝説を見たという喜びに駆られ、大きくどよめいたのだ。Baggioが伝説になった一瞬だった。
 
Robyはサン・シーロでファンとピッチとボールに別れを告げた。長年アズーリで仲間として母国の栄誉を目指したマルディーニと最後の挨拶をかわし、交代の選手と抱き合い、キャプテンマークを渡す。鳴り止まぬ歓声、焚かれる多くのフラッシュ、もうピッチでは試合が再開されているというのに―。Robyは手を上げたながら、ファンとピッチに別れを告げた。一度も振り返らず。その背中が、今まで多くの瞬間を作ったRobyの背中よりも、何よりも大きく、誇らしく、そして、悲しく感じた背中だった。
 
 
小さな、そして貧しい家に生まれ、暴れ回っていた少年時代、カルチョに出会い自分の何より大きい生きがいとして、初めてプロ契約をして以来早22年。花の街でトップクラスの仲間入りを果たし、悲しき別れを告げ世界を代表するビッグクラブへ。一度目の挑戦は不満足、二度目は儚く終わった。ライバルと天敵に追い出され、クラブを転々として、三度目は寂しく終わり、復活しても四度目は巡ってこなかった。しかし、多く伝説を作った―。もう二度と、こんな選手が現れるだろうか。ピッチの上でも、ピッチの外でも、劇的なドラマを見せてくれたRoby。ファンに愛され続けたRoby。まだまだ、そのプレーを目に焼き付けたいのだが、そうも言ってはいられない。





―Grazie!e buonripozo!Roby!―