【 月夜を歩く 】
真円の月が空に懸かっている。闇を切り取ってぽっかりと穴が開いたようだ。 煌々と眩いばかりの光を放っているのに、昼のほっとするような陽光とは違って、冷たく冴えた光を放っていた。怖いほど厳かに。 それに打ち消されて、周りの星々の光が届かなくなる様を見上げていた。強すぎる光は、時には雲がかかるよりもよほど害になるのだと思う。 ─ ああそういえば、温かいはずの太陽は、星の光も、今夜空を支配している月の輝きをも消し去っているのだっけ。 そう考えると、明るい昼が不気味なものに感じられ、怖いはずの夜に温かなぬくもりを感じた。 昼間の熱気を、秋が迫った夜気はとうに駆逐していた。涼しいというより、肌を刺す寒々しいものへと変わっている……らしい。兄さんが、ちゃんと毛布を被って寝ているから。 何も感じない事実には既に慣れていたけれど、昼と変わらないように思える明るい月の夜は、妙に頭が冴えて仕方が無い。眠る代わりにいつもやっている、ぼんやりと何も考えず、無為に時を過ごす所作が、とてつもなくつらかった。痛みも何も感じないのなら、つらい事も哀しい事も感じなければいいのに。そんな事すら考えてしまう。 疲れているのか、いびきをかいて寝ている兄の顔を覗き込み、それから静かに扉を開けて表へ出た。明るい月明かりの下に一歩踏み出す。 黙って座り込んでいても気が滅入るばかりだし、こんな夜は散歩するに限る。遠い昔、兄さんと一緒に、真っ暗な中をランプ片手に探検した事を思い出してワクワクする。あの後、お母さんにバレてこっぴどく叱られたっけ。 路地裏を巡り、きれいなお姉さんがシナを作って声をかけられたのに驚いて逃げ ─ 。もう少し眺めていれば良かったかもと、ちょっと後悔。 道端でランランと目を光らせている猫たちとふざけてみた。昼日中の怠惰な様子と違い、夜の猫たちは生き生きとして飛ぶように走る。とても追いつけそうにないくらい。夜は、もしかしたら猫たちのものかもしれないなと感心した。 そんなこんなとフラフラ歩いていたら、塀と塀に挟まれた小さな公園に辿り着いた。申し訳程度の遊具に小さな花壇がある。そこには、夜中だというのに白い花が咲いていた。月明かりに純白の花弁がぼうと浮き上がってみえる。 と、突然後ろに差した影が、花びらの受け止めていた月明かりを遮った。 大きな猫でもやってきたのかと思って振り返った。最初は本当に、大きな猫かと思った。花びらの代わりに凛とした光を浴びた、金の毛並みの ─ 。 「……兄さん?」 つい30分ほど前に、大口開けて間抜けな寝顔を晒していた兄がそこにいた。ムッとした表情で、塀の上からこちらを見下ろしている。ポケットに両手を突っこんだままの、ちょっとだけ胸を反らせたその格好は、何だか怒っているように見えた。お小言直前の、お母さんの眉根を寄せた表情を思い出す。 「兄さん、あの…ね? ちょっと散歩に出ただけで。あの、その…」 「影踏みするか。アル」 「………はい?」 「お前が鬼な」 そう言って、兄さんはポンと飛び降りてこちらの影を踏むと、にやりと笑ってみせた。そしてドカドカと走っていく。 「ちょっと待ってよ! 兄さん!」 「鬼に待てと言われて待つバカはいねえぞ」 「影踏みだったら兄さんのが有利じゃないか!」 「何だと!? 誰が小さくて踏む影もない豆だって!?」 「誰もそこまで言ってないって。……でもホントの事じゃん」 「お前なー。ちょっとは兄貴に対する畏敬の念とか持てよ」 「えー? そんなの持ってたら、とてもじゃないけどムチャな兄の弟はやってられないと思うなー」 「あー怒った! ホントに怒った! 絶対に掴まってやんねー! 夜中鬼やってろ! アル!!」 「あ、兄さん! 塀の影に隠れるのは三秒までだからね! ちゃんとルールは守ってよね! ボクの方が大きくて不利なんだから!!」 「まだ言うかーっ!!」 月夜の街を走る。公園の湿った土を踏んで、石畳を鳴り響かせ。塀をよじ登り、それどころか家々の屋根を飛び越えて、自分たちの縄張りを荒らされた猫たちの、威嚇の鳴き声の中を走り回る。夜回りの憲兵に見つかりそうになって慌てて身を隠し、二人で声を潜めて笑いあった。 月は冷たく夜空を照らしている。凍てつくほどに厳しい、全てを見透かすような光。でもとてつもなく優しい。何故だかそう思えた。 東の空が白みかけた今、兄さんを背負って歩いている。月の支配が終わり、また太陽の時間が訪れた。鳥のさえずりと人々の活気が感じられる。 「あーあ。もう完璧に寝ちゃってるよ」 ひとの背中の上で遠慮なく手足を伸ばし、クークーと寝息を立てている兄の無防備な寝顔を覗き込んだ。妙に満足そうな表情をしている。 ボクに気なんて使わずに寝ていれば良かったのに…と、口にしかけてやめた。その代わり「バカ兄貴」と、わざと憎まれ口を叩く。声の調子が、自分でも驚くくらい優しい響きを帯びていて、何だかちょっと恥ずかしかった。 嬉しい時の涙って温かいものだった気がする…なんて、埒もない事を考えてしまってから苦笑した。 でももし、その記憶が正しかったとしたら。 今、涙を流したいと、そんな事を思った。 了 (2006.9.24)
お久しぶりの更新は、中秋の名月の頃の兄弟のお話。 眠れないアルは、秋の夜長をどうやって過ごしているのだろうと考えて書いてみました。 きっと夜中の散歩と洒落こんでいるに違いない。エドってば実はちゃんと気がついていて、何も言わずに付き合っていたりするかもしれないなどと思ったり。 子供にとっての夜って、とても怖いものだけれど、それ以上に未知のものに満ち溢れたワクワクどきどきする空間だったような気がします。滅多に歩けないから尚更。 そんな私は、未だに夜の散歩が好きなのだった(宵っ張り) |