愛想人の世界


▼▲▼ 法住寺 ▲▼▲

 
愛想人は、生時代に京都で「法住寺・身代不動尊」と出合い・・・・
 
<人生において宗教心をもつことの大切さ>を教えていただきました
 

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法住寺・身代不動尊

京都市東山区三十三間堂廻り町

 

かつて鴨川以東に法住寺殿と呼ばれる巨大な政庁があった。

後白河法王の院御所がそれで、平安末期の貴族中山忠親の日記によれば、この御所は十余町の土地を地あげし、その域内にあった八十有余の堂舎をことごとく破壊して建設されたらしい。 ちなみに一町はおよそ一万平方メートル。 専制君主の面影をしのぶに足りる逸話だろう。 蓮華王院すなわち三十三間堂も、その境域に建立されたお堂のひとつであった。

その法住寺の名を継承する寺院が、三十三間堂のすぐ東側に建っている。 後白河法王の墓所、法住寺陵に奉仕してきたお寺で、明治維新以後は大興徳院を名乗り、昭和三十年以降、法住寺の名前を継承しているという。 北側は豊臣秀吉の側室、淀殿ゆかりの養源院に接しており、観光客で混雑する三十三間堂の境内とは異なる、清楚で落ち着いた雰囲気をかもしだしている。

本尊は身代わり不動という。 源平合戦の時代に、木曽義仲が法住寺殿を襲撃した事件が起こるが、このとき天台座主明雲が敵の矢にあたって絶命してしまう。 寺伝によれば、後白河法王はこの不動明王が明雲と化して自分の身代わりになったと嘆いたという。 絵馬に描かれているのもこの不動である。 背後に東山の峰峰と門が見えているが、この門は法住寺陵の旧門で、いまはお寺の門のひとつともなっている。

七条通の東山界隈を歩こうと、阿弥陀ケ峰の山麓からぶらぶら降りてきて、養源院の前を過ぎると、法住寺の境内の夏ミカンの木が目についた。 本堂には赤穂浪士の木像が安置されている。 大石蔵之助が大願成就を祈った寺だという。 見ると、夏ミカンの実がたわわにみのり、目にあざやかだった。

(西山克・京都教育大学教授/1999年3月18日・京都新聞・謎とき京の絵馬、より)