右近研究家の久保田さんが、右近に関する質問にお答えします。右近掲示板もしくは管理者宛メールで質問をお寄せください。
Q.. ヴァリニャーノは、巡察師として、3度来日しているようですが、それぞれについて教えてください。
Q. 山右近のキリシタン・ネーム(霊名)は、「ジュスト・義人」ということですが、神の前に「義人」といえる人は、いないのではないのですか?
Q. 「切腹」について、キリシタン達はどのように考え、対応してきたのでしょうか。
Q. 三位一体(さんみいったい・チリンダアデ)の デウス(神)について、教えてください。
Q. 山右近が、マニラで召天(帰天)されたのは、「2月3日」でいいのでしょうか? (「2月5日」と記されているものがありますが)
Q. 山右近は、主君である和田惟長(これなが)を倒して、高槻城を“乗っ取った”のですか?
Q. 「ぱあてるのすてる」(主の祈り)とか、「けれど」(使徒信条)とかいうことばは、“ラテン語”のようですが、ラテン語について教えてください。
Q. 直接、「山右近」のことではありませんが、クリスチャンにとって、“お墓”とは? どういう時に行くの? お花や好物を持って行くの? 墓前礼拝はなんでするの?
Q. 山右近の遺骨が、納骨されているかもしれないと言われています、フィリピン・ケソン市の修道院の墓地に行きたいと思いますが、修道院の名前と住所を教えてください。
Q. [I NRI]とか[I HS]という言葉がよく出てきますが、何の略で、どういう意味ですか。
Q 「ジュスト右近」という言い方が一般的のようですが、「ユスト右近」という言い方もされていますが、どういうことなのですかQ. 「山右近」と言っていますが、“姓”は「山」、“名前”が「右近」ということでしょうか?
Q.賤ヶ岳の合戦で、高山右近が、中川清秀を見殺しにして、戦わずに逃走したというのは本当ですか。
Q.「ドチリナ・キリシタン」は、りっぱなキリスト教入門書ですが、右近たちがそれをどう読んだのか、とても興味があります。何か手がかりはあるのでしょうか。
Q.「じぶ煮」を作ってみたいと思いますが、作り方を教えてください。
Q.スペイン・マンレーサ洞窟内聖イグナシオ聖堂の「高山右近像」はいつ頃描かれたものなのですか。
Q.三浦綾子さんの書かれた「細川ガラシャ夫人」を読んでいましたら、「こんてむつす むん地」という本のことが出てきましたが、どんな本なのですか。
Q.画家の長谷川等伯と高山右近は関係があったのですか?
Q.高山家の家紋は「七曜星」だそうですが、どのような文献にのっているのですか。
Q.日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルの、日本人の同伴者の名前が「アンジロウ」とも「ヤジロウ」とも伝えられていますが、どちらが正しいのですか。
Q. 高山右近がマニラで召天した日は、西暦1615年2月3日だったそうですが、日本の暦では何月何日になるのか、どのようにして知ることができますか。
Q. 高山右近が26年間すごした「金沢」を訪ねてみたいと思いますが、関係ある場所といえば、どこですか。
Q. 千利休と高山右近との関係について教えて下さい。
Q.昭和39年、右近の小指と、「高山ジュスト、父ダリオ、母マリア」と刻まれた青銅製の馬像が発見されたそうですが、此の現物は現在何処に有るのでしょうか。
Q.右近の墓の馬の像と小指の骨の件ですが、それが偽物であったという情報の出典を教えて下さい。 Q.右近の遺骨が、フィリッピンで発見された(旧米軍兵舎の跡地内で)と新聞報道が二年前に有りましたが、其の后報道が有りません。何か情報が有れば教えて下さい。
Q.高山右近さんの少年時代は、どのようなものだったのですか?(大阪府守口市・小学4年生)
A. まず、「巡察師」(Padre Visitador)についてですが、イエズス会総長から、全権を委託されて、日本を含む東アジアの宣教を統括する役割を与えられていた宣教師のことです。
すべての大事な事柄は、イエズス会総長の承認を受けてすすめるべきなのでしょうが、何しろこの当時は、ローマに報告し承認を受けようと思えば、最短・往復3年間はかかってしまいます。ましてや、途中で事故でもあれば、永久に答えが帰ってこないことになってしまいます。━━
というわけで、人事などのほかのことは、巡察師に全権が委託されていたのでした。
宣教師ヴァリニャーノは、「巡察師」として、3度来日しています。
● [第T回目] 1579.7.25 〜 1582.2.20 [2年7か月]
※ この時の特徴的なこととしては、
・インド管区「日本布教長」は、カブラルで、宣教のすすめ方に関して、ヴァリニャーノとは意見の対立が顕著で、ヴァリニャーノは、ローマのイエズス会総長宛に「カブラルを、布教長の職から解任するように」書状を送っているほどです。
ヴァリニャーノの滞在中に、日本をインド管区から分離して、「副管区」に昇格させましたので、カブラルは「日本副管区長」ということになります。
・大村純忠によって、長崎がイエズス会に寄進されました。
・教育機関が重視され、臼杵に修練院・安土にセミナリオなどが建てられます。
・「五畿内巡察」が、7か月に亘ってなされます。
高槻で盛大な復活祭(1581.3.26)・更に盛大な聖体の祝日の祭典(5.25)・安土訪問などがなされました。
・信長から「安土城屏風」をプレゼントされ、「天正少年使節」4人を伴って、離日します。
● [第U回目] 1590.7.21 〜 92.10.9 [2年少し。T回目の離日から8年後]
※ この時の特徴的なこととしては、
・「日本副管区長」は、コエリョで、この人も宣教のすすめ方で、いろいろ問題があった人です。ヴァリニャーノがまだインド管区長として、インドにいた時に、コエリョの宣教方針背反に対して、厳重訓告しているほどです。
ヴァリニャーノは、巡察師として来日してすぐ、最初の仕事として、長崎に集められていた武器や砲弾などの軍需品を処分しているほどです。
・秀吉によって「伴天連追放令」(1587年)が出たあとで、巡察師としての来日はむずかしく、「インド副王の使節」という立場で、天正少年使節と共に来日し、聚楽第で秀吉に謁見しています。通訳は、ロドリゲス。
・持ってきた印刷機によって、「キリシタン版」の出版がすすめられていきます。
・日本を離れる直前に、キリシタン迫害が更に激しくなり、長崎の教会や修道院が破壊されていきます。フロイスを連れて、離日。
● [第V回目] U回目の離日から6年後。1598.8.5 〜 1603.1.15 [4年5か月。3回のうちで一番長かった・2倍]
※ この時の特徴的なこととしては、
・この時の来日に際しても、カブラルから横ヤリが入って、「全インド管区・日本副管区の巡察師」ではなく、「日本だけの限定された巡察師」として来日。この時の日本の責任司祭は、マルティンス。
・来日した翌月に、秀吉が死去。その後、よくなると思いきや、徳川家康が権力を握り、宣教師やキリシタンに対する対応は、更に厳しくなっていきます。
・念願だった、日本人最初の司祭が叙階されます。(2人)
・キリシタン版の出版がつづきます。
・フロイスの「日本史」とは別に、ヴァリニャーノの「日本史」の執筆がスタートします。全4巻計画の内、第1巻を脱稿しますが、未完成に終わります。
フロイスの「日本史」と共に、ヴァリニャーノの「日本史」の両方がそろっていたら、それはそれは、すごい史料になったことと思われます。残念!!
A. 大使徒パウロも、「ローマ人への手紙」3章10節で、旧約聖書「詩篇」のことばを引用して、「義人はいない。ひとりもいない。」と言っていますよね。そうなんです。
人類最初の人間として、神によって創造されたアダムとエバの罪(原罪)によって、人類の中に罪が入り、一人一人の中に、生まれながらにして、罪が内住(ないじゅう)するようになりました。良心も与えられていますが、内住している罪によって、歪められ汚されてしまっています。
パウロも、「私のうちに罪が住みついています。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(7章24節)と言っていますよ。
「義」なるお方である神の前に、「正しい」程度の人はいても、「義(ただ)しい」人は、世界中、ひとりもいないのです。そして、死後、義なる神の前に引き出された時には、自らのおびただしい罪のゆえに、さばかれて、永遠の滅びに入れられるしかないのです。
しかし、パウロも先のことばに続けて、こう言っています。「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」(7:25)
そうなんです。イエス・キリストを「神の御子・救い主」 “罪人(つみびと)である私を、救ってくださるお方” として信じる者を、その信仰によって、神は私たちを「義なるもの」として認め、受け入れてくださるというのです。「義人」と認めてくださるというのです。
義なるお方である神が、私たちを、義人と認めてくださり、受け入れてくださり、天の御国(みくに・天国)に招き入れてくださるというのです。(「信仰義認」と言っています。)
勿論、イエス・キリストをそのような救い主として、 “信じないし、受け入れないよ” とおっしゃる方は、それも結構ですが、神の前に、罪に汚れたままの状態ですので、きよいきよい所である天国には入ることは出来ません。自分で自分の責任をとるしかありません。自己責任として、これは、あたり前のことですよね。
さて、右近さんは、イエス・キリストを12歳の時、「神の御子・救い主」として、信じ受け入れ、洗礼を受けました。神の前に「義人」として認められ、受け入れられました。そして、キリシタン・ネーム「ジュスト(義人)」と、ロレンソ修道士に命名していただきました。
そして、生まれかわりの「永遠のいのち」をいただいて、それからは、「神の義」に生きていく者とされていったのです。「ジュスト」の霊名にふさわしい生涯だった、といえるのではないでしょうか。
「義人はいない。ひとりもいない。」
主イエス・キリストによって、「義人」とされた者(すべてのクリスチャン)がいるだけです。
Q. 右近の妻・ジュスタさんのことを教えてください。
A. フロイス・著「日本史」(完訳・織田信長篇T / 中公文庫)の第15章に、「余野の地について」が記されており、これがくわしい史料のすべてです。━━
といっていいでしょうか。
まずは、是非、お読みになってください。
大阪府豊能郡豊能町の「余野」は、ジュスタさんの郷(さと)であり、余野城跡のふもとには、[十 高山ユスタ夫人出生之地]の碑も建てられています。
お父さんは、右近の父・高山ダリオ飛騨守の大の友人で、遠縁にあたる人。「黒田」姓と思われていますが、フロイスの原文(ポルトガル語)の写本では、すべて「クロ殿」・「クロン殿」で、一回だけ「クロダ殿」となっています。(官職名で「蔵人・くろうど」ではないか、と言われています。)
キリシタンの信仰をもって間もない、信仰に燃えていた山ダリオは、城主だった沢や故郷の高山などの家族や親族・兵士たちのために、ロレンソ修道士を伴って、キリシタン信仰を伝えていきます。
余野の、大の友人であり親戚のクロ殿のところにも、手紙をしたため、ロレンソ修道士に出かけてもらい、福音を伝えてもらっています。「切に心から勧めて言いたいのは、是が非でもデウスのことを聞いてキリシタンになるように。すなわち、自分はこの教え以外には、いかなる他の救いの道もないことは、絶対確実だと保証する。」(ダリオ飛騨守の手紙)
ロレンソは40日間、余野に滞在して、キリスト教を伝えますが、結果、クロ殿をはじめ、妻子(この中に、長女のジュスタもいたわけです。)・きょうだい・クロ殿の父、および家臣たちが洗礼を受けていきます。
まもなく、クロ殿の父そしてクロ殿自身も病気になって、召天していきます。(ジュスタは、父親を亡くします。)母・マリアは、キリシタンだった義父や夫の亡き後、まわりの圧力に屈していき、信仰から離れ、夫の兄弟と再婚します。山ダリオ飛騨守は、大の友人だったクロ殿に対する配慮と責任感から、ジュスタの信仰を守りたいと思ったのでしょうか、長男のジュスト彦五郎(右近)とジュスタ(当時13歳くらい)を結婚へと導いたのでした。
その後、ジュストとジュスタ夫妻が協力して、長い間の祈りと愛の実践によって、母・マリアや継父や子ども達を高槻に迎え入れ、信仰に導いていっています。
この右近の妻・ジュスタについて、「南方録、岐路弁疑」や「南方喫茶玄続録」(孫引きの記述だと思われますが)によりますと、 “右近は古織の妹婿なるを” となっていて、ジュスタは古田織部の妹・右近と織部は義兄弟、ということになるのです。だとすると、古田織部は余野の出身で、クロ殿の息子ということにもなるのですが、他の織部や右近関係の史料には、こうした一連の史実はいっさいありませんし、整合性もありません。このひと言の記述だけをもって史実とするのは、ムリがあるようです。
ジュスタさんは最後、夫のジュスト右近や娘のルチア、長男・十次郎(すでに召天)の5人の子ども達などと共に、フィリピンのマニラに国外追放されていきますが、1615年2月3日に夫・ジュスト右近が召天した後、どうされたのでしょうか。
江戸時代・キリシタン「大禁教令」のもと、ひそかに日本へ帰ってきたということが、1616年7月18日付・長崎発、ジェロニモ・ロドリゲス神父の書簡に記されています。ジュスタと娘・ルチア、そして十次郎の5人の孫の内の一人です。ただし、伝聞によるもので、しかも、ここだけの記述ですので、このことも、どこまで正確な史料なのかは、はっきりとは言えません。
なにしろ、山右近やキリシタン関係の史料や遺物は、権力者たちによって、徹底的に、跡形もないまでに、壊され、葬りさられてしまったのですから。
※
山ジュスト右近、そして山ジュスタ夫妻。ジュスト(Justo)・ジュスタ(Justa)のキリシタンネーム(洗礼名・霊名)は、ともにポルトガル語です。ポルトガル語には、「性」の区別があり、語尾が
━oで終わる男性形・━a で終わる女性形が、一般の形です。Justo(男性形)= Justa(女性形)= 義人(ぎじん・神によって、義と認められた人)[義(ただ)しい完壁な人という意味ではなくて、神の前には誰もが罪びとなのですが、その罪の結果受けなければならない神のさばきを、主イエス・キリストが身代わりとなって、十字架上で受けてくださり、もはや罪がないものとして扱ってくださる、神によって義と認めていただいている人という意味の「義人」]
A. キリシタン武士たちは、一人も「切腹」をしてはいません。なぜ、そのように言えるのかといいますと、 “切腹して自ら生命を断つ” ということは、デウスの厳しい戒めである「十戒」(十のマンダメントス)の中の、「殺すなかれ」の戒めを犯すことになる、デウスに対する大罪(モルタル科・とが)であり、彼らが切に願っている天国(パライゾ)に迎え入れられることは、ありえないからです。
宣教師たちは、キリシタン達に、どのように指導したのでしょうか。ローマ・ヴァチカンのフランシスコ・ロドリゲス神父の手にかかる、1570年付けの文書「日本の神父が送付してきた質問事項に対する回答集」という貴重な史料があります。これは、在日の宣教師たちから、日本のキリシタンの日常生活について、どう対応すべきかをローマに宛てて書き送られてきた46の質問に対する、46の回答集です。
その[第40項]に、「切腹」のことが採り上げられています。【質問】敵の手から逃れることが絶望的な場合、或いは、切腹しないと、本人のみならず、子々孫々まで汚名を着せられたり、土地を失ったりするので、それを避けるため、切腹するよう主君から命じられたような場合、キリシタンに切腹は許されるであろうか。
【回答】この件についての神学博士、及び教会法博士の見解に従えば、神意による以外、如何なる者にも断じて「自殺」は許されないことになる。
というのは、たとえば、キリスト教徒である者が異教徒に偶像礼拝を強要されたり、或いは、そのキリスト教徒に代わって神の名を汚すようなことをされたりするのがはっきりしているような場合に限って、そのキリスト教徒に自殺は許されるとする教会法博士もいるにはいるが、こうした考え方には依然として疑問が残るからである。
どの博士も口をそろえるのは、この世で汚名を着せられたり、世俗の財産を失ったりするのを避けようとして自殺するのは許されない、ということである。ただし、日本人にとって、それらは命を捨てるほど深刻な問題である。
次にあげる例は、「切腹」と同等に扱える問題ではない。我々の西洋社会では、罪人(ざいにん)を断頭台に引いていって首をはねることがあるが、これは自らを死に至らしめる行為ではない。それは飽くまでも絞首刑に処せられるのであって、自分の足で断頭台に向かったからといって「自殺」とみなされるものではない。
しかし、「切腹」は自ら、それも直接手を下す行為であるから、してはならないのである。敵の手にかかりたくないのなら、まずは、何がなんでも逃げるべきである。
Q. 三位一体(さんみいったい・チリンダアデ)の デウス(神)について、教えてください。
A. 吉利支丹版の「どちりなきりしたん」には、次のように記されていますよ。
「御あるじデウスは、パアテレ(父)と、ヒイリヨ(子)と、スピリツサント(聖霊)と申し奉りて、ペルサウナ(位格)は三つにてましませども、ススタンシヤ(実体)と申す御正体 は、ただ御一体にてまします也。」
現代の聖書では、全能の天地万物の創造主のことを「神」と「主」という言い方で呼んでい ますが、キリシタン時代は、「神」のことを[デウス]、「主」のことを[御あるじ]と呼ん
でいました。 現代の聖書で「主なる神」と言っているところは、[御あるじデウス]と言っていたわけです。
最初に「神・デウス」についてですが、旧約聖書が記された原典(ヘブル語)では「エル」。複数形が「エローヒーム」になります。
ところで、聖書の最初の最初は、「創世記」の1章1節ですが、 「 初めに、神が天と地を創造した。」
この「神」の部分には、実は、複数形の「エローヒーム」が使われているのです。(しかも、動詞は単数で受けています。)
1章26節の、「人間の創造」の場面では、次のように記されています。
神(エローヒーム)は仰せられた。
「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。」
「神」は唯一のお方ですが、単数ではないのです。 父なる神・子なる神・聖霊なる神。父・子・聖霊なる神を、混同することなく、本質を分離することなく、三位(父・子・聖霊)を一体において、唯一のお方として、われらも・キリシタン達も、礼拝しているのです。
この「三位一体の奥儀」(チリンダアデのミステリヨ)については、四次元の有限の世界 に生きる私たちには、ぴったり当てはまる適当なたとえはありませんので、変に何かにたとえようとはしないで、信仰で受けとめているのです。
次に「主・御あるじ」についてですが、この御名(みな)については、「出エジプト記」 の3章14〜15節に記されています。
「 わたし(神)は、『わたしはある』という者である。・・・・ 主(YHWH・聖4文字)、 これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。」
この聖4文字「YHWH」については、どのように発音すればよいのでしょうか。
旧約・当時のユダヤ人(現代もそうだと思いますが)の間では、「十戒」の第3戒「御名をみだりにとなえてはならない」ということで、「YHWH」と出てくると「アドーナーイ」 (「アードーン」 “主”の一般語の複数形)と言い換えて読んでいました。「神・主」(エロヒーム・アドーナーイ)というわけです。
言い換えではなくて、実際にはどのように発音すればよいのでしょうか。聖4文字の子音字に、2つの母音記号を合わせて、[YaHWeH](ヤハ・ヤハウェ)と読むのが一般的です。古代のヘブル語の発音にも近いようです。
有名な「ハレルヤ・コーラス」の “ハレルヤ”ということばは、ハレル(ほめたたえる・賛美する)・ヤ(ヤハ・主) ━━ 「ヤハをほめたたえよ・主をほめたたえよ」ということなのです。
もちろん、この「主・御あるじ」も[三位一体の主]を表していることばであることに、かわりはありません。
ただ、新約聖書では、神の御子・救い主(ぬし)のことを「主イエス・キリスト」という言い方をしますが、この形で使われている時には、 “子なる神である主イエス・キリスト” という意味であることは勿論です。
Q. 山右近の肖像画で、一番古いものはどれですか。
A. 山右近のことを、直接見聞きして描いたという、同時代のものはありません。
残されている“信長像”や“秀吉像”なども、本人が生きている間のものではなく、追善ないしは尊崇のために(信長の一周忌に供養のため・豊国大明神像として など)描かれ、寄進され、祀られ、礼拝(らいはい)されているものばかりです。
( 絵だけが紹介されていることが殆どですが、大体は“賛”として、文章が書き記されています。)
ですから、現在、それらの絵が残されている場所は、寺社であり、今も礼拝の対象として、拝まれているというわけです。
山右近の場合、そうしたこととは無関係でしたから、そのような類のものはありません。
「山右近」を描いた絵で一番古いものは、山右近が召天して、31年後(1646年)、ローマで刊行された、ポルトガルのイエズス会士・カルディム(1596−1659)の著した「日本殉教精華」の中のさし絵です。
“ Iustus Vcondono Iappon ”
さし絵の下方に記されている文章の意味は、
“日本人ジュスト右近殿、信仰に殉じて追放され、航海の苦難に困憊(こんぱい)し、1615年2月3日マニラに死す。”
召天日(帰天日)が、1615年2月3日だと、はっきり記されていますよ。
よく紹介されています、スペイン・マンレーサにある“聖イグナシオ聖堂”のモザイク壁画の「山右近像」は、【右近Q&A】の別の項で取り上げていますが、90年ほど前(20世紀・1920年頃)、マルティ・コロネスによって制作されたものです。
日本のものでは、作者がわかっているものでは、単独画ではありませんが、「山崎大合戦之図」の中の「山右近像」です。
“太閤記”物の錦絵で、作者は一魁斎芳年(月岡芳年:1839〜1892)。慶応元年(1865)頃に描かれ、版元から印刷・出版されました。
いずれにしても、すべての“山右近像”は、山右近の実像を知っていてのものではありませんので、皆さんそれぞれが、自分の思う「山右近像」を想い描かれるといいのではないでしょうか。
「山右近は誠に思慮深く、かつ傑出した人物である。
その人となりは勇敢無双、教養あり、また廉直である。」 (前田利家)
Q. 山右近が、マニラで召天(帰天)されたのは、「2月3日」でいいのでしょうか? (「2月5日」と記されているものがありますが)
A. 以前、キリシタン文化研究会・会員の高橋勝幸さんの文章が、紹介されていたのですが、今は掲載されていません。高橋さんの了解をいただいて、紹介させていただきます。
山右近の「帰天日」 高橋勝幸(啓光学園教諭)
山右近の亡くなった年月日は、1615年「2月3日」であることは、はっきりしています。しかし、なぜか「2月5日」と信じている方々が多いのです。「2月6日」と言われる方もいます。
「2月3日」が定説ですが、なぜこのような間違いが起こるのか疑問に思い、調べ直してみました。
暦の読み間違いはよくあります。特に1582年「10月4日」の翌日は「10月15日」になります。というのも、この日を境にして「ユリウス暦」から、現行の「グレゴリウス暦」への移行が実施されたので、多くの書物の日付の間違いの元となっています。
また、陰暦には「閏(うるう)月」があって、この換算でも多くの誤りが出ています。つまり、山右近の「2月6日」説は、陰暦の小月(29日間)と大月(30日間)の勘違いによって、陰暦1月8日から換算して出したものと思われます。
それにしても、「2月5日」説の根拠は何だったのでしょうか。
キリスト教関係者の間で、このような間違いが多いのは、『日本キリスト教歴史大事典』(教文館)の松田毅一氏記述の「山右近」の項で「2月5日」となっているため、この辺りから間違った日付が流布したからではないかと考えて、根源を探っていきました。
吉川弘文館刊行『国史大辞典』の「山右近」の項で、五野井隆史氏は「2月3日」と正しく述べられていて、さらに出典も明らかにされていました。このほか、海老沢有道氏などの吉川弘文館刊行の文献はすべて「2月3日」でした。
調べた結果、最初の間違いは、ペドゥロ・モレホン神父(1562年ー1639年/イエズス会)が、マニラからメキシコへの途次に書いた『日本殉教録』にあることが分かりました。
モレホン師は、右近の臨終に立ち会った目撃者であるだけに、権威ある証言に見えますが、同じ殉教録の中で右近の洗礼の年も、1563年を1565年と誤って記載しており、自身の手書き原稿の数字の「3」を「5」と読み間違ったために起こったミスと言えます。(注)
この間違いにモレホン師自身も気付いたようです。30年ほど前にローマで発見されたモレホン師の記述による「1630年の列福調査」(17世紀にもマニラで、山右近の公式列福調査があった)の公式証言記録では、はっきりと「2月3日」と訂正されており、しかも数字ではなく、文字で「tres」(スペイン語の「3」の意味)と記されています。従って「2月3日」で間違いなく、疑う余地はなくなっています。
ところが、キリシタン研究の権威であったヨハネス・ラウレス神父(イエズス会)は、ニコラス・トリゴー神父(1577年ー1628年/イエズス会)の記録、およびモレホン師の殉教録を基にして、その著『山右近の生涯』で「2月5日」を確実なものと主張されました。ラウレス師の用いた資料は、トリゴー師の『日本殉教記』も含めて、すべてモレホン師のものが基となっていたので、複数の資料を参考にして、間違いに気付かなかったようです。
松田氏の間違いは、このラウレス師の資料からの引用にあると思われます。松田氏はラウレス師の資料を多く用いられているため、『近世初期日本関係 南蛮史料の研究』の中編「南蛮史料の研究」第1章においても、地理的な間違いがいくつかありましたが、これらの資料を引用したと思われる片岡弥吉氏の『日本キリシタン殉教史』も同じ間違いをしていました。
このように、モレホン師の「3」と「5」の読み間違いから始まった「2月5日」説が、現在までも一人歩きし、混乱を来しています。
キリシタン研究の大家で、山右近に詳しいフーベルト・チースリク神父(イエズス会)は、早くからこの間違いに気付かれて、論文を書かれています。海老沢氏、五野井氏はこれらのチースリク神父の論文に接して、正しい記述をされてきたものと思いますが、両氏のような謙虚で地道な研究活動に敬服するとともに、そうした姿勢は、多くの者が学ぶべき模範であると痛感させられました。
(注) 京都・妙心寺の「春光院」に残されている 【イエズス会の鐘】(重要文化財)の、
鐘銘の年代〈1577〉の「5」に注目してください!
「5」は、“一筆書き”されることが多かったようですね。 これでは、「3」と間違えそうですよネ。
Q. 山右近は、主君である和田惟長(これなが)を倒して、高槻城を“乗っ取った”のですか?
A. 高槻の城跡公園に建てられている「山右近像」は、1972年、国際ロータリークラブの、366地区年次大会記念に、制作・寄贈されたもので、彫刻家・西森正昭さん・作のものです。
この像のすぐそばに立てられている説明板を見てみますと、次のように記されています。
「右近と父・高山飛騨守は・・・主君・和田惟政の敵・荒木村重とむすび、惟政の遺子・惟長を追放し、元亀4年(1573)、右近は、高槻城主となりました。・・・・云々。 高槻市教育委員会」
主君・和田惟政の敵・荒木村重とむすび、主君、惟政の遺子・惟長を追放し、右近は高槻城主となりました。
主君の敵とむすび、主君の遺子を追放し、右近は高槻城主となりました。
この説明板の文章を準備した人、高槻市教育委員会の人の、にがにがしく思っている気持ちが伝わってくるような気がしませんか?
「主君の敵とむすび、主君の遺子を追放し、自分が、城主となっていった。自分が城主となるために、敵とむすんで、追放したんですよ! 皆さん、しっかり覚えておいてくださいよ!」
━━ と言わんばかりの言い方です。
ところで、このことに関する真相は、どうだったのでしょうか?
重要な歴史史料として注目したいのは、事件があった、わずか8日ほど後に、布教長・カブラル宛に書かれた、宣教師ルイス・フロイスの手紙です。1週間ほど後に書かれた手紙です。
そして、もう一つ、事件から120年以上たってから書かれた通俗物語ですが、「陰徳太平記」という物語本にも、部分的に、重要な事柄が含まれていると思います。
そして、忘れてはならない重要なことは、この当時の社会情勢です。
将軍・足利義昭の側につくのか、天下統一をめざす、織田信長の側につくのか、二者択一の選択が必要だったのです。
事件が起こる2年前の元亀2年(1571年)、右近の父・山飛騨守は、名君・和田惟政のもとにあって、城番として、芥川城をまかされたほどの、一番家老であったわけですが、この年、元亀2年、「白井河原の合戦」が起こり、今の茨木市の耳原(みのはら)公園のあたりにあった「糠塚」(ぬかづか)に陣を構え、池田方・主力の、荒木村重や、中川清秀と戦います。
この時、和田惟政は僅か200の手兵(しゅへい)を率いて出陣。相手方に対する判断を誤って、突撃し、鉄砲隊の襲撃を受けて、戦死してしまいます。
高槻城も、荒木・中川勢に包囲されてしまいますが、織田信長の命(めい)を受けて、明智光秀らがかけつけて、なんとか、落城をまぬかれます。
さて、和田惟政、亡き後のことになるのですが、和田惟政の子ども、和田惟長(幼名・太郎)は、この時17歳。右近(この時はまだ彦五郎と名のっていましたが)、右近は21歳。二人は同世代です。
彦五郎が父と共に、高槻の地に来て、芥川城に入ったのが5年前のことですから、その時は16歳。今で言うと高校生ということになります。
太郎と彦五郎は、若者どうし。双方の父親どうしも、太郎の父・惟政は、キリスト教や宣教師たちのために好意を示し、保護を続けましたし、一方、彦五郎の父・飛騨守は、熱心で、忠実なキリシタン。基本的に、立てられた権威には、忠実に従っていく姿勢でしたから、和田氏と山氏は、互いに信頼関係で結ばれていました。
惟長は、父亡き後、高槻城をついでいくことになるわけですが、今でいうと、高校2年生。惟長にはまだ、みんなをまとめていく力はありません。
家来衆の信頼は、一番家老で、実力者であった山飛騨守と、その子・彦五郎父子(おやこ)に集まっていったのは、自然のなりゆきだったことでしょう。
新しい高槻城主となった若き惟長の後見人として、父・惟政の弟、叔父さんの和田主膳惟増(これます)が、助力していくのですが、若くして城主となった惟長は、とんでもない行動をとってしまいます。
後見人として、いろいろ助力してくれていた叔父さんの和田主膳を、殺害してしまうのです。殺してしまうのです。
ルイス・フロイスの書き残しました、有名な「日本史」という本の中には、次のように記されています。
「数か月の後、その若者は、自分の叔父にうんざりし、自ら刀をふるい、一撃のもとに彼を殺害してしまった。」
そのように記されているのですが、いろいろ意見されて、「うんざり」して、感情のおもむくままに、行動してしまったのでしょうか。
そして、この殺害の手が、今度は、山飛騨守・彦五郎父子にまで及んでくるのです。
若い城主・惟長の周りには、仲間の若者や、山父子の名声に反感を抱いている家臣たちが、取り巻き連として、いつもいました。
彼らは、山父子のことを、「殺した方がよい。否、そうすることが必要だ。その実行をのばすべきではない。」と、惟長に、山父子の暗殺をすすめ、その気にさせていくのです。
さあ、あなたが、山飛騨守、あるいは彦五郎だったら、どうされますか。
後見人・叔父の和田主膳・惟増が殺されたように、殺されるのも止む無しとされますか。何しろ、お世話になった和田惟政の遺子・惟長の手にかかるのですから、ご恩に報いるつもりで、いたし方なし。討たれて、主君・和田惟政の後を追うことにされますか。
当時、高槻は、摂津の国の一部でした。今は亡き、和田惟政は「摂津守護」に任ぜられていました。
「白井河原の合戦」で惟政を死に至らしめた時、荒木村重は、池田方の主力だったのですが、今では、主君の池田知正(ともまさ)を斥けて、配下に置き、摂津守護としての、地位と勢力を築いていっています。
その、荒木村重は、織田信長が上京してきた時に、手勢を率いて、逢坂山にかけつけ、信長に従っています。
2年後の、信長の家臣団再編成のときには、村重は、正式に、「摂津国主」として、大役を託されていくことになるのです。
というわけで、登場人物を整理してみますと、
家臣・山飛騨守・彦五郎父子の上司は、高槻城主の和田惟長、その上司は摂津守護あるいは後の摂津国主の荒木村重、その又上司は、天下統一をめざす織田信長ということになります。
いわば、山父子にとって、支社の長、支社長が和田惟長、本社の社長が荒木村重、会長が織田信長ということになります。
山父子は、いわば支社・高槻城の危機的状況や、暗殺計画を、本社の長に相談しました。
上司の不手際を、もはや、高槻城には、自浄能力、自ら浄める能力がないと見て、更に上の上司に訴えて、善処を仰いだわけです。
日本側の史料である「陰徳太平記」には、和田惟長に、荒木村重に対する逆心・むほん心があったことを挙げています。
120年後に書かれた通俗的な物語ですので、どの程度、信頼できるか━ ということはありますが、真実味があると思いますのは、当時の社会情勢とよくマッチしているからです。
織田信長が、天下統一をめざし、有力な武将たちが、追々、従ってきていましたが、一方で、将軍・足利義昭の側につく勢力も依然としてあって、対抗していたのです。
荒木村重は信長派でしたが、村重に斥けられた池田知正らは、将軍・義昭派です。
今は亡き、和田惟政は、流浪中の義昭を援け、又、将軍と信長との間を取り持つ働きをしたほどですから、その子ども・惟長にとってみれば、父を倒した張本人の、荒木村重に、心から従っているわけではありません。
惟長や、和田派の家臣たちには、むしろ心情として、将軍・義昭の側に傾き、反荒木の思いがあったと考えていいのではないでしょうか。
山飛騨守・彦五郎父子は、高槻城の危機的状況、暗殺計画、謀反計画を、更に上の上司である荒木村重に相談し、善処を仰ぎました。
更に上の上司の答えは、「堂々と、受けて立つように」 ということだったのです。
ごくごく、まともな回答だったのではないでしょうか。
そして、右近たちは、暗殺計画があるのを覚悟の上で出かけていき、双方が激しく切り合うことになり、右近も、惟長も、大けがをして、惟長はその後、逃れた伏見の地で亡くなり、右近も、生死の境をさまよい、九死に一生を得て、その後、回復します。
高槻城は、この時、門の上にある番所2か所、および、二つの小さなやぐらを残して、全焼してしまいます。
城主・和田惟長が亡くなり、山飛騨守が高槻城主になります。そして、しばらくして、傷もいえた彦五郎に家督をゆずりますので、高槻城主・山右近が誕生するのです。
高槻城は、その後、一から建て直され、後日、築城の名手と言われた右近によって、堀も、しっかりしたものに造り直されていくことになります。
さて、以上のようなことを、正しい日本語では、「乗っ取る」と言うのでしょうか。
「乗っ取る」ということばは、決して、プラスイメージで使うことばではありません。あってはいけないことを、しでかした!━という響きをもって使うことばです。
まず、こちら側に、「奪い取る」という、はっきりとした意志があって、計画をたて、準備をし、すきをねらい、実行に移して、奪い取り、自分がとってかわる。
一番わかりやすい例は、織田信長を倒した明智光秀の場合でしょう。明智光秀は「乗っ取った」のです。「下剋上」を実行したのです。
和田惟長に対する、山飛騨守・彦五郎父子の場合も、同じでしょうか。同じだと思われますか?
これは、「高槻城乗っ取り事件」ではなくて、城主・和田惟長による、「山父子暗殺未遂事件」と呼ぶべきではないのでしょうか。
あとは、皆さんで考えて、判断なさってみてください。
山父子がとった行動について、私ならこうする、こうした、というものをもって、考えてみてください。そうでないと、批判のための批判になり、それは、非難にしかすぎませんから。
Q. 「ぱあてるのすてる」(主の祈り)とか、「けれど」(使徒信条)とかいうことばは、“ラテン語”のようですが、ラテン語について教えてください。
A. キリシタン版として有名な「どちりなきりしたん」(1600年長崎刊・国字本)に、「ぱあてるのすてる」「けれど」「十のまんだめんとす」(十戒)などが記されています。もともとのことばは、
“Doctrina Christam” “Pater Noster” “Credo” “Mandamentos”
となります。
“pater”(父)を、キリシタン版では「ぱあてる」と記していますが、ラテン語は、母音の長短を明確に区別する言語でして、“pater”は、「パーテル」ではなく、「パ」を短く、「パテル」と発音します。つまり、「パテル・ノステル」(「ぱてるのすてる」)と発音します。
なお、「母」のラテン語“mater”は「マーテル」と、のばして発音するんですよ。
以下、少し専門的になりますが・・・・・・
● ラテン語は、母音を含む各音節の長短の区別を明確にする言語ですが、それは、内包する音節の長短によって、各単語におけるアクセント(古典ラテン語では、強弱ではなく高低)の位置が決定されるからです。
たとえば、“pa-ter”のような2音節から成る単語では、アクセントは必ず第1音節(pa) にありますが、3音節以上から成る単語では、後ろから2つ目の音節が長ければそこにアクセントがあり、短ければアクセントは、その前の音節に置かれます。
たとえば、「マタニティ」の語源であるラテン語の“maternitas”は、“ma-ter-ni-tas”と4つの音節から成っていますが、後ろから2つ目の“ni”が短い音節ですので、アクセントはその前の“ter”に置かれて、「マーテルニタース」の「テ」を高く発音することになります。
したがって、ラテン語の場合は、アクセントがどの音節に置かれるかという以前に、音節の長短(特に、その中の母音の長短)が厳格に定められているのですが、ヨーロッパの近現代語では、“最初にアクセントありき” で、アクセントがある音節が自動的に長く発音されてしまう傾向にあります。
すなわち、ラテン語の“pater”には、元来のラテン語の規則どおり、第1音節の“pa”にアクセントがあるものですから、ラテン語を母語としない中世以降のヨーロッパ人は、自分たちの母語の流儀に従って、アクセントのある“pa”を、無意識に長く発音してしまうというのが傾向です。
“pater”は、本来は「パテル」なのに、つい「パーテル」とのばして発音してしまうことも、その一つの表れです。
“pater”から派生した、ポルトガル語やイタリア語の“padre”(司祭・神父)も、当然アクセントがある“pa”を長く発音して、「パードレ」となってしまうというわけです。
なお、「パードレ」が「ぱあでれ」と記される、即ち「ド」が「デ」になることについては、近代以前の日本人は、ヨーロッパ語の単語中で、後ろに母音を伴わない子音(padreの場合は、d)を発音する場合、その後ろに続く子音(padreの場合は、r)が流音(lとr)の場合には、その“l”または“r”の後ろの母音(padreの場合は、rの後ろのe)を、先行する子音(padreの場合は、d)の後ろにも補って、“padre”をあたかも“padere”のように発音する傾向にあります。
その最もわかりやすい例が、日本人が英語の“glass”を、まるで“galass”のごとく「ガラス」と発音したことでしょう。
キリシタン時代の日本人が、“sacramenta”を、「サクラメンタ」ではなく「サカラメンタ」と発音していることも、その一つの例です。
細川「ガラシャ」の霊名が、ラテン語の「Gratia」であるのを、あたかも「Garatia」であるかのように発音したことも、分かりやすい例だと思います。ただし、「Gratia」は古典ラテン語では「グラーティア」と発音します。
「けれど」も、「私は信じる」を意味するラテン語の動詞“credo”そのものであり、これは本来のラテン語では「クレードー」と発音しますが、上に述べたような理由で、あたかも“ceredo”であるかのごとく、「ケレド」と発音されてしまったのです。このような例は、数えればきりがありません。
ちなみに、ラテン語の固有名詞を日本語で表記する場合、各音節の長短に忠実に書くとすると、例えば
Johannes は「ヨーハンネース」、 Hieronymus は「ヒエローニュムス」
Augustinus は「アウグスティーヌス」、 Gregorius は「グレゴーリウス」
Clemens は「クレーメーンス」
となってしまい、日本語としては、やや長ったらしい感じになります。それで、一般書などでは長音記号はすべて省いて、「ヨハ(ン)ネス」「ヒエロニ(ュ)ムス」「アウグスティヌス」「クレメンス」などと書いているケースが多いようです。それはそれとしても、逆のケース、すなわち本来短い音を長いように書いてしまう(例えば「パテル」を「パーテル」と書く)のには違和感を感じます。
山右近の霊名を、「ジュスト」ではなく「ユスト」と書くケースについてですが、考えてみると、前教皇の名前を「ヨハネ・パウロ」と書くのも不思議です。
特に、「ヨハネ」というのは、いったい何語なのでしょうか?
ラテン語では「Johannes Paulus」ですが、これをそのままカタカナで書けば、「ヨーハンネース・パウルス」または長音抜きにして「ヨハ(ン)ネス・パウルス」です。
「Johannes」は、イタリア語では「ジョヴァンニ」、ポルトガル語では「ジョアン」、スペイン語では「フアン」、フランス語では「ジャン」、英語では「ジョン」、ドイツ語では「ヨーハン」です。
この名前を、「ヨハネ」とする言語など、日本語以外にどこにもありません。
ひょっとして、ラテン語「Johannes」の奪格(名詞の格変化の一つ)である「Johanne」を転用しているのかもしれません。「Paulo」(パウロー)も、「Paulus」(パウルス)の奪格ですが、もしこれがイタリア語なら「Paolo」(パオロ)のはずです。
そういえば、右近の霊名のラテン語「Justus」の奪格も「Justo」ですので、この形を、日本語表記の「ユスト」に用いているのかもしれません。ただし、母音の長短に忠実に発音すれば「ユーストー」ですが・・・。
● 以上のことは、すべて、“ラテン語・ラテン文学”を専門にされている「原田裕司」さんに、ご教示いただきました。
原田さんのホームページ 「HIROSIUS HOME PAGE」も、是非、ご覧になってみてください。
Q. 直接、「山右近」のことではありませんが、クリスチャンにとって、“お墓”とは? どういう時に行くの? お花や好物を持って行くの? 墓前礼拝はなんでするの?
A. 来年(2010年)4月ごろ、夫婦でフィリピン・ケソン市のノバリチェスにある、山右近の遺骨が納骨されているかもしれないと言われている、「聖心修練院」の墓所を訪ねたいと思っています。
また、大阪・崇禅寺にある「細川ガラシア」のお墓には、機会のあるたびに出かけていっています。
勿論、わが久保田家のお墓にも・・・・・。 そして、感謝と祈りと賛美の時をもっているんですよ。
旧約聖書で、信仰の人・アブラハムは亡くなった妻・サラのために、エフロンという人から土地をわけてもらい、そこを墓地にして丁重に葬っています。
後に、アブラハムも、その子・イサクやヤコブたちも、そこに葬られました。 エジプトの宰相ともなったヨセフは、いつかユダヤの民が寄留しているエジプトを出て、故郷にもどっていく時には、自分の遺体(ミイラにしたもの)を運び出して、葬るように指示しましたし、人々もそのようにしています。
新約聖書でも、主イエス・キリスト自身、十字架からおろされて、「園の墓」に葬られました。
亡くなった人たちの遺体は、丁重に扱い、葬るように求められています。
葬ったあとは、どうなのでしょうか。聖書に、そのことに関する記録はないようですが、亡くなった人が、お墓の、その場所にいるわけでも、そこで眠っているわけでもありません。
主イエス・キリストを、「わが神・救い主」として信じている人は、主なる神の前に罪の問題は解決されて、主イエス・キリストが身代わりとなって、神のさばきを受けてくださったので、その人は、今は「天の御国(みくに)・天国」にいるわけで、お墓にはいませんし、そこで眠っているわけではないわけです。(信じていなくて、罪の問題が解決されていない人も、「天国」とは違う別の場所にいるわけです。)
私たちが、お墓に行くのは、“お墓参り”として、拝みに行くのではありません。その場所が、その人のことを覚え、一体感を覚えるのに最適の場所だからです。墓前で、主なる神に祈り、今は天国にいる人と一つとされている幸いを実感し、感謝し、賛美することが出来るのです。
お花や好物などを持っていく必要はないわけですが、たとえ、持っていったとしても、お供えするのでは勿論なくて、今は天国にいる人を、より深く覚えるだけのためですから、むしろ、花はすぐ枯れてしまい、果物などはカラスや猫などのエサになったりして、お墓を汚すだけですから、無い方がいいのではないでしょうか。それより、お墓が雨風のために汚れていたら、きれいに掃除することの方が、ずっと大切なことだと思います。
“クリスチャンはお墓を大切にしない!?”などと言われないように、どんどんお墓に行って、感謝・祈り・賛美の時を持ったらいいと思いますよ。
特に、召天(帰天)の記念日には、まだ信仰をもっていない家族・親族も集まりやすい時ですから、皆で集まり、お墓にも出かけていって祈りの時をもち、会食などをして、召された人のことを思い起こしながら、親しく睦まじい交わりをもつことは、すばらしいことではないでしょうか。
私が、右近さんのお墓や、細川ガラシアさんのお墓、そして、わが久保田家の墓や佐藤家の墓(妻の)などに出かけて行って、感謝と祈り・賛美の時をもっているのは、以上のような理由からです。
Q. 山右近の遺骨が、納骨されているかもしれないと言われています、フィリピン・ケソン市の修道院の墓地に行きたいと思いますが、修道院の名前と住所を教えてください。
A.
ノバリチェス 笛に答えて 風涼し
2006年4月21〜24日、「山右近・マニラ巡礼ツアー」で、三俣俊二先生(聖母女学院短期大学)にご案内いただいた時、ケソン市の修練院の墓地をも訪ねました。そして、墓前で、祈りと賛美(リコーダー)の時をもたせていただきました。
二基のクリプト(crypt)には、次のように刻まれています。
+I H S
Here lie 57men (1864-1927) ※ もう一基には 30men (1864-1936)
unknown to men but known to
God. In1945 their remains were ※ remains(遺骨)、transfer(移す)
transferred from the war-torn war-torn(戦争で破壊された)
church of San Ignacio, Manira.
“人には知られなくとも、神はご存じである”
山右近の遺骨が、このクリプトの中にあるのかどうかも、今の私たちにはわかりませんが、主なる神様はご存じだということですよネ。
● 【名称と住所】
Sacred Heart Novitiate / Apostolic Facilities ※ 聖心修練院 / 使徒施設
Km 23 Quirino Highway 1117 Quezon City
電話 02−939−5060 / 02−936−3380
※ “Sacred Heart Novitiate” で検索されたら、ホームページが出てきます。
※ 私たちのツアーでは、現地のクラレチアン会の神学生が同行してくださいましたが、おそらく、事前に連絡しておく必要があるのではないでしょうか。
Q. [I NRI]とか[I HS]という言葉がよく出てきますが、何の略で、どういう意味ですか。
A.
● 【I NRI】 ラテン語 ※イエス・キリストが十字架に架けられた時、十字架上に掲げられた“罪状書き” 「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」
Iesus(イエス) Nazarenus(ナザレ) Rex(王) Iudaeorum(ユダヤ人)
● 【I HS】 ラテン語
Iesus(イエス) Hominum(人類) Salvator(救い主)
● 【XP】 ギリシャ語
XPICTOC(キリスト) ※最初の2文字から
● 【I HC】 ギリシャ語
IHCOYC(イエス) ※最初の3文字から
Q 「ジュスト右近」という言い方が一般的のようですが、「ユスト右近」という言い方もされていますが、どういうことなのですか。
A 私は「ジュスト右近」と言っていますが、確かに「ユスト右近」と書かれていたりします。
右近さん自身は、ポルトガル語の手紙(ローマのイエズス会総長にあてて、金沢時代に書いたもの)の署名でも[Justo]とポルトガル語で記していますから、ポルトガル語の発音通り“ジュスト”と言っておられたと思いますが、それでは“ユスト”とはどういうことなのでしょうか?
ラテン語だったら「Justus」“ユ−ストゥス”のはずで、“ユスト”には、ならないようです。
おそらく、“ユスト”というのは、ラテン語の“ユーストゥス”とポルトガル語の“ジュスト”が、混同された結果ではないかと思われます。
ちなみに、右近さんは、先のポルトガル語の手紙の書き出しに、「キリスト の 平安 」と書いておられますが、これは「Pax Christi」というラテン語の直訳で、キリシタン時代の日本人司祭らが、自らのラテン語の手紙の冒頭に好んで書いています。
「Pax Christi este」(キリストの平安あれ)と書く人もいます。
Q. 「山右近」と言っていますが、“姓”は「山」、“名前”が「右近」ということでしょうか?
A. 実は、両方とも違うのです。「山」というのは姓ではありませんし、「右近」というのも、名前ではあり
ません。
まず、「姓」の方から言いますと、当時「姓」というものは、朝廷から、特別に賜るものであって、「源平藤橘」(げんぺいとうきつ)と言って、「源」「平」「藤原」「橘」の四つの「姓」しか認められていませんでした。
皆さんが、「源氏物語」を読まれたことがおありでしたら、第1帖の「桐壷」の巻で、 帝(みかど)と桐壷の更衣の間に生まれた第2皇子、この子には、「天皇になると、国が乱れ、民の憂いとなる」という相があるということで、親王にはしないで、臣下として朝廷の補佐に任ずる形にして、「源」
(みなもと)の姓を賜る、「賜姓源氏」(しせいげんじ)ということが出てきます。
主人公が、「源氏」「光源氏」と呼ばれて、それが物語の題名にもなっているわけですが、そのことを思い出していただきますと、よくわかっていただけるのではないでしょうか。
この賜った「姓」があるかどうかで、格が違ってくる、ということになります。本当はそうでなくても、こじつけて、由緒ある出であることを強調したわけです。
ですから、正式文書のサイン等では、足利尊氏は「源尊氏」、織田信長は「平信長」、徳川家康は「源家康」、そのように記しています。
秀吉は、百姓出身であることをだれもが知っていましたので、いくらこじつけてみても「源平藤橘」の末裔であるなどと、「源平藤橘」のどれかの姓を名のる、というわけにはいきません。そこで、いろいろ朝廷に対して細工して、のちに、「豊臣」というのを「姓」として朝廷より下賜される、ありがたく賜るということになりますので、「姓」は「源平藤橘」の他に「豊臣」が加わって、合計5つになります。「姓」というのはこの5つだけですので、その他のものは「姓」とは言いません。
それでは「山」というのは何なのでしょうか?
「山」というのは、「名字」と言われます。「名字」というものには、大体は出身の地名が用いられています。「名字」というのは中世の頃、その土地を所有していた豪族たちが、その地名を名字にしていたわけです。われは、この地域の土地を領有しているんだぞ!ということを、天下に言い表す意味があったわけです。
山右近は、現在の大阪府豊能郡豊能町高山の出身ですが、ここ高山は箕面の勝尾寺の荘園だった所で、右近の先祖は、勝尾寺の荘園「山庄」をまかされていた地頭だったというわけです。
次に「名前」についてですが、1573年4月10日頃、和田惟長による山父子暗殺未遂事件がおこりましたが、その8日ばかり後に書かれたルイス・フロイスの書簡・手紙には、「山殿とその子彦五郎」と記されていますので、この時期には、「彦五郎」と呼ばれていました。「山殿」というのは、お父さんの山飛騨守のことです。
お父さんの飛騨守は、彦五郎の傷のなおるのを待って、家督と、高槻城主の地位を、長男の彦五郎に譲りましたが、この時から、「友祥」(ともなが)に改めたようです。「長房」という名前も伝わっています。
それでは「右近」と言うのは、何なんでしょうか?
実は、「官職名」です。「右近」というのは「右近衛府」(うこんえふ)の略で、「左近衛府」とともに、宮廷を警護し、儀式がある時や、天皇が外出する時などに、警護の任にあたった役所です。それが「右近衛府」そして「左近衛府」というわけです。わかりやすく言いますと「近衛兵」です。あのイギリスのバッキンガム宮殿の近衛兵、あるいは皇居の入り口を守っている皇居警察官の長をイメージすればいいでしょうか。
1574年、右近が高槻城主となった翌年に出した公式文書ーー本山寺の権利を保護することを認めた「安堵状」(あんどじょう)には、『山右近允 重出』(・・じょう ジュスト)と記しています。「山右近允」と記したのは右近の祐筆・書記役ですので、右近の直筆ではありません。「重出」は花押で、書き判、今でいう実印ですので、これは直筆のサインです。
この「允」(じょう)というのは、近衛府の「頭」「助」「允」「属」(かみ・すけ・じょう・さかん)とある四等官(しとうかん)のうちの第三等官になりますので、あまり高い地位であるとは言えないようです。
「ジュスト」というのは「正義」という意味ですが、右近が12歳の時に、奈良の沢城で洗礼を受けた時以来のクリスチャンネームです。それに漢字をあてて記しています。
公式文書にサインをする時は、名前は書かず、官職名と花押(サイン)を記します。「右近」という官職名が大事なのであって、「友祥」という名前は公式には大した意味はないのです。
今でもそうだと思うのですが、橋下大阪府知事とか、奥本高槻市長とか、いう場合でも、知事とか、市長という役職名が大事なのであって、橋下さんの下の名前、奥本さんの下の名前は何でしたっけ? よく覚えていないかもしれませんよネ。でも、下の名前がどうであっても、そのことに別に意味があるわけで
はないというのと似ているかもしれません。
ところで、右近さんは、実際に「右近衛府」に勤務していたのでしょうか。ということではなくて、高槻城主となった時を期して、公的な格をつけるために、名のっていったものと思われます。正式に願い出て、朝廷から「右近允」という官職をもらったということではなさそうです。
正式には、朝廷に願い出て、勿論ただではやってくれませんから、多額の費用を使って、官位・正一位とか従二位などといった「官位」と、それプラス、官職・少納言とか越前守などといった「官職」名をセットでもらって、名のっていくわけです。
時は、戦国時代です。「従六位」といった「官位」の方は絶対に、勝手には名のれませんが、「右近」といった「官職名」の方は、かなり自由に名のっていたようです。
右近のお父さんの「飛騨守」というのも、“飛騨の国の知事”さんということですが、本当にそうだったはずがなく、朝廷に願い出て、多額のお金を使って、その官職名を手に入れたとはとても思えません。
それに、「飛騨守」というのは、彼一人だったわけではありません。そう名のっている人は、たくさんいたわけです。
飛騨の高山は有名です。大阪・豊能の高山なんて、だれも知りません。それで「山飛騨守」と名のっただけのことではないでしょうか。
「右近」の場合も同様で、正式に朝廷に願い出ておれば、官位・官職はセットで下賜されますから、たとえば「従六位・山右近允」という風に、セットで用いてこそ意味があろうものなのですが、「右近允」の記録はあっても、官位・官職名をセットで用いている記録は見当たりません。先に引用しました、高槻城主としての公式文書である「本山寺宛の安堵状」においても、「右近允」といった官職名のみで、官位は記されてはいません。
ついでに言っておきますと、女性の名前ですが、右近さんの妻も、クリスチャンネームの「ジュスタ」が知られているだけで、名前はわかりません。
男性の場合でも、格を重んじた官職名を通称にさえしていたくらいですから、女性にも、ちゃんとした名前があって、互いに呼びかわしていたはずですが、いっさい伝わってはいません。
あの、「源氏物語」を書いた紫式部、あるいは「枕草子」を書いた清少納言にしても、式部とか少納言というのは、名前ではないですものネ。
Q.賤ヶ岳の合戦で、高山右近が、中川清秀を見殺しにして、戦わずに逃走したというのは本当ですか。
A. もしも、そのような重大なことが事実だったとしたら、豊臣秀吉自身が右近をゆるしておくはずがありませんが、そんな事実はなく、その後も、秀吉が信頼する武将の一人になっていったのでした。
後日、荒木村重が右近を中傷したときに、秀吉は非常に腹をたて、「黙れ、村重。予は彼が言行一致した人物であることをよく知っている。」と言い、村重に退去を命じているほどです。
右近が守っていたのは、前線に近い余呉湖の東北端、岩崎山の砦。最前線の堂木山にいた山路正国の翻意と内通のため、柴田勝家軍の佐久間盛政の軍が、余呉湖の南側を迂回して、中川清秀が守る大岩山を奇襲します。一万余の佐久間軍に対して、千人の兵。大岩山につづく岩崎山の右近の軍も千人の兵。右近は清秀に使者を送って、ひとまず撤退し、後日に改めて功を立てるべく説得しますが、聞き入れず討ち死にしてしまう清秀。
右近も援護し、妻ジュスタの兄弟二人としゅうとを始め、多くの貴重な部下を失いますが、ついにささえきれず、ひとまず木之本まで退いて、秀吉到着後の戦いに備えます。
秀吉がねらい、待っていたのは、柴田軍の勢力の分断でしたから、佐久間盛政が、大岩山や岩崎山の砦を占領した後、柴田勝家の「引き返せ」の命令も聞き入れず、賤ヶ岳をも手に入れようとしていることを聞いて、秀吉は一気に大垣から大返しで木之本までかけつけ(52kmを5時間で走破)、勝利していったのでした。
Q.「ドチリナ・キリシタン」は、りっぱなキリスト教入門書ですが、右近たちがそれをどう読んだのか、とても興味があります。何か手がかりはあるのでしょうか。
A. キリシタン版の「ドチリナ・キリシタン」で、現存している物は4種類です。
(1)「どちりいな きりしたん」 1591年頃(天草)刊、国字
(2)「Doctrina Christan」 1592年天草刊、ローマ字
(3)「Doctrina Christan」 1600年(長崎)刊、ローマ字
(4)「どちりな きりしたん」 1600年長崎刊、国字
国字本の「どちりな きりしたん」が出版された1591年・1600年といえば、高山右近は加賀の地にいた時ですが、当時のキリシタンにとって必読の書でしたし、刊行されたキリシタン版の中でも、もっともよく普及したものでしたから、まだ聖書そのものがごく一部の訳しかない中で、右近にとっての一番の信仰書は「どちりな きりしたん」だったにちがいありません。
キリシタン版と言われる、印刷機を使った書籍が出版される以前には、手書きのものが伝えられていたはずです。
沢城では、右近の父・飛騨守が「祈祷とミサの秘儀其の他デウスの教えの事を日本語に訳し、自ら之を教え、又しばしばキリシタン等に読み聞かせて信仰を持続せしめんと努力せり。」とありますが、これは「どちりな きりしたん」のことだと思われます。
まだ常駐のパードレがいなかった高槻では、「ダリオと其の子は第一に会堂に来るを常とし、日曜日及び聖徒の祭日には彼らの為、或いは説話をなし、或いは心霊上の書籍を読誦せり。」とあり、これも第一の書は「どちりな きりしたん」だったに違いありません。
パードレたちによる説教も、「教理説教」で、キリシタンの教理(ドチリナ)をわかりやすく説く内容のものでした。
そして、「どちりなきりしたん」に記され、暗唱もしていた「ぱあてるのすてる」(主の祈り)などの祈りがなされ、「けれど」(使徒信条)を信じ、「まんだめんとす」(十戒)を守り、「じひのしょさ」(「マタイの福音書」25章の実践)による愛の行為がなされていったのでした。
父ダリオが、新調の着物を、寒そうにしている一人の貧しい兵士に与えたり、城主である右近と父ダリオが、棺を担いだりしたことも、彼らの思いつきだったというのではなく、聖書の言葉や「どちりなきりしたん」の教えに対する、キリシタンとしての当然の応答だったのでした。しかしそれらの行為は、戦国の世にあっては、到底考えられないほどの驚くべき出来事だったのです。
Q.「じぶ煮」を作ってみたいと思いますが、作り方を教えてください。
A.その由来が、宣教師から教わった料理法を高山右近が伝えたとも言われている加賀・郷土料理の「じぶ煮」ですが、普段からよく作られているのだろうと思って、金沢の人たちにたずねてみても、「めったに作らない。」という答えばかりでした。アレレ!!
それでは自分でと思って何回か料理して見ましたが、他の肉料理では味わえない風味があって、おいしいですよ。
特徴が煮方にあって、鴨肉に小麦粉をまぶし、肉の味が流れないように煮ますので、お肉のうまみが包みこまれておいしいのです。
〔わが家のレシピ〕
(材料)
・鴨肉、かしわでも十分おいしい。
・しいたけ、ニンジン(赤色が、色を添えてくれる)、ゆばもいい。
・青物を何か一種(ほうれんそう、サヤインゲン、貝われだいこんなど。好みに合わせて)
・すだれ麸(右近が作ったときは無かったはずで、絶対必要なものではありませんが、金沢旅行をしたら買っておくとよいでしょうし、物産展でも売っています。)
(調理法)
@しいたけは、みりん・しょうゆ・だしを使って、にんじんは砂糖と塩を使って、先にゆでておきます。
A肉を一口切にして、小麦粉をまぶし、しばらく時間を置いて、粘りを出しておきます。
Bなべに、しょうゆ・みりん(各大さじ2)、酒(半カップ)、だし(1カップ)、砂糖(小さじ1)を入れて(お肉の全体がつかる量になっているかな?)、火にかけ、沸騰したらAの肉を入れ、落としぶたをして、弱火で炊き上げます。(「ミディアム」状の軟らかめがおいしい。)
C煮た肉を取り出し、煮汁の中に、しいたけ・ニンジン・すだれ麸、しばらくして青物を入れて、炊き上げます。
DCで入れた物を取り出し、煮汁に、少しの小麦粉を同量の水でといたものを加えて少しだけたき汁をととのえます。
E肉や煮たものを、好みの碗にもり、Dのとろりとした汁をかけ、中央にわさびを添えて、でき上がり。
Fいただきま〜す。 「お味は、いかが?」
Q.スペイン・マンレーサ洞窟内聖イグナシオ聖堂の「高山右近像」が、いろんな右近関係の本や記事の中に引用されていますが、いつ頃描かれたものなのですか。
A.高山右近の肖像画で一番古いものは、スペインのマンレーサ洞窟内にある地下聖堂セント・イグナシオ聖堂のモザイク壁画に描かれている「高山右近像」ですが、17世紀のもの(「高山右近」北國新聞社)、あるいは19世紀のもの(「高山右近」加賀乙彦・著、講談社)と記されていて、あまりに違いすぎますので、スペイン大使館に問い合わせの便りをしました。現地にまで問い合わせてくださり、頂いた答えは、90年ほど前(20世紀)に描かれたものでした。右近が召されて300年以上後のものです。
作者は、イエズス会士マルティ・コロネス(1862−1928)
洞窟の壁画は、1915年から1922年にかけて制作されたものです。
(イエズス会士のシャビエ・メロニさんが回答してくださいました。)
Q.三浦綾子さんの書かれた「細川ガラシャ夫人」を読んでいましたら、「こんてむつす むん地」という本のことが出てきましたが、どんな本なのですか。又、高山右近も読んだのでしょうか?
A.聖書の次に、よく読まれてきた信仰書と言えるかもしれません。あるいは,みなさんも読まれたのではないでしょうか。
「イミタチオ・クリスティ」(「キリストに倣(なら)いて」)、著者は、アウグスチノ会の修道士トマス・ア・ケンピス。あるいは、トマスもその指導を受けたヘーラルト・ホロートの作になるものを、トマスが修正、増補、編纂(へんさん)したものである−−−とも言われています。
キリシタン版としては、1596年、ローマ字によるものが天草(熊本県)で出版され、1610年には、国字(平仮名を主とした漢字まじりの文)によるものが京都で出版されています。
これらの年には、高山右近は金沢に在住していますが(1588年〜1614年)、これらまとまった形での出版より先、1588年2月20日のフロイスの書簡に、”細川ガラシャの求めに応じて贈った”とありますから、早くから、部分的な翻訳がなされていたことは確かのようです。
聖書とともに有名な書ですから、パードレ(神父)達も紹介したでしょうし、高槻、明石時代の右近も、おそらく,その内容の一部には触れていただろうと思われます。
国字本「こんてむつす むん地」は、名訳で、格調の高さを保ちながら、わかりやすい文体であり、吉利支丹文学中の傑作といえます。
尚、書名の「こんてむつす むん地」(ローマ字体「CONTEMPTVS MVNDI」)とは、”世の思いを捨てる”こと(世界のみもなき事をいとふ事)、「イミタチオ・クリスティ」とは、”キリストに倣う”(イエス・キリストをまなひ奉る事)ということで、共に、書き出しの第一章の章題からとられたものです。
Q.画家の長谷川等伯と高山右近は関係があったのですか?
A.高山右近は、金沢時代は「右近」ではなく、「南坊等伯」(みなみのぼう・とうはく)と名のっていました。残されている加賀藩の文書には、「右近」では出てきません。
同時代を生きた長谷川等伯は、13歳年上。能登の七尾の出身で、右近の知行地も能登にありました。
当時、御用絵師だった狩野永徳・狩野一門とは、基本的な生き方、自然観・世界観を異にし、千利休ほか、茶人たちと交友関係を持っていました。利休没後5年目(1595年)に描かれた「利休居士像」も、等伯57歳の作品です。
右近が名乗った「南坊等伯」については、ともに、茶の湯そして千利休との関係で親しく交流のあった堺・南宗寺の南坊(なんぼう)宗啓や、狩野派に対抗した(しかも能登出身)長谷川等伯に敬意を表して自らの号として用いさせていただいた、ということではないか。「南坊」の呼び方については、キリシタンとしての意味もこめて「みなみのぼう」にしたのだろう。――と思っております。
おそらく、無断で借用・名乗ったとは考えにくく、領主でもなくなった身であれば、いつまでも「右近」でもあるまいと思っていたでしょうし、1588年、加賀に向かう直前あたりに、お二人にも話して了解をもらっていたのだろうと思います。このあたりの史料が出てくるとうれしいのですが・・・・。
Q.高山家の家紋は「七曜星」だそうですが、どのような文献にのっているのですか。
A.日本の資料の中には出てきません。フィリピンで宣教に従事したコリン著「フィリピン諸島におけるイエズス会の布教史」の第28章が「高山右近伝」になっていますが、その中に、
「太閤様が全領主を率いて関東の戦いに行ったとき、その中には筑前殿(前田利家)がいたが、彼の武将としてドン・ジュスト(高山右近)は、・・・前の紋章の七つ星を用いないで、十字の印をかかげていた。」
とあります。これが、高山家の紋章が「七曜星」であったことについての、唯一の資料です。
「七曜星」とは、北斗七星のこと。
Q.日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルの、日本人の同伴者の名前が「アンジロウ」とも「ヤジロウ」とも伝えられていますが、どちらが正しいのですか。
A.ザビエルの目を未知の日本に向けさせ、ついに日本行きを決意させ、よき同伴者となった日本人の名前が、アンジロウかヤジロウか、日本の史料がないので定かではありませんが、洗礼名は、パウロ・デ・サンタ・フェ(聖なる信仰のパウロ)でした。
外国人にどう聞こえたかですが、ザビエルやゴアの聖パウロ学院院長ニコラオ・ランチロットはAngero、フロイスはAnjiroと表記しています。(ザビエルの言い方が後々影響したはずですね。)
これに対して、通詞伴天連として知られたジョアン・ロドリゲス・ツズは「Yajiroという男子名・・・この名前をいろいろな書物には間違って、Angeroと書いている。」(「日本教会史」)と記していて、Yajiroが正しい、としています。
ザビエルは手紙の中で、「山口」のことを「Amanguchi」と記していますが、音韻学の立場から言うと、日本語の「ヤ」が外国のYのような摩擦音ではないので、「ア」と聞き取られたようです。
考えられる漢字表記は、弥次郎か安次郎でしょうが、「弥太郎・弥次郎」「安(あん)太郎・安(あん)次郎」と並べて見ますと、「安」は(やす)と読むのが普通でしょうか。(あん)は何となくしっくりしません。
断定はできませんが、「ヤジロウ・弥次郎」が正しいと思われます。
Q. 高山右近がマニラで召天した日は、西暦1615年2月3日だったそうですが、日本の暦では何月何日になるのか、どのようにして知ることができますか。
A. ちなみに、高山右近の召天日の1615年2月3日は火曜日でした。日本の暦(和暦)では、慶長20年1月6日にあたります。尚、この年の7月13日(和暦)に改元され、それ以降は元和元年となります。
以上のことは、図書館に行って、「日本暦綴(れきてい)」日本暦西暦対照暦で調べました。
皆さんの誕生日が何曜日だったかも、すぐわかりますよ。
Q. 高山右近が26年間すごした「金沢」を訪ねてみたいと思いますが、関係ある場所といえば、どこですか。
A. まず、金沢市内の地図を準備してください。駅レンタサイクルで、自転車を借りて行動するのが便利です。(時間制、1日1200円) 最初に金沢城の周囲を一回りしてみましょう。
@百万石通り(広坂通り)にある「カトリック金沢教会」 創立百周年記念の「高山右近像」(竹下慶一・作)、高山右近邸内に置かれていた「南坊石」があります。教会発行の「石川のキリシタン史跡」(その一)を分けていただくと、このあとの行動がスムーズにいきます。
A「石浦神社」向かいの「金沢21世紀美術館」の敷地の一部が利家生存の頃の「右近の屋敷跡」です。(「中央公園」の辺りだったともいわれています。)
B石川門を左手に見て「紺屋坂」を下っていった兼六園下交差点付近に「南蛮寺」(切支丹寺)が建てられていました。
C交差点をそのまま少し進むと、右近が指揮して掘った「旧東内惣構堀」の碑と遺構が見られます。
D大手町まで来ると、金沢城の修築時、右近の指導により、大手口の位置を変え、築かれた「尾坂門」(大手門)の雄壮な遺構が見られます。
E「甚右衛門坂」の大谷廟所のあたりに「教会」が建てられ、金沢商工会議所から尾崎神社寄り一帯が「伴天連居址」で、キリシタン達の住まいがありました。
F尾山神社の手前にある「金沢貯金事務センター」のある所が、金沢城炎上前後に移ってきた「右近の二番目の屋敷跡」です。
Gあとは、自転車を走らせて、主計町(かずえまち)にある「緑水苑」に来ると、右近が指揮した「西内惣構堀」のあとを、はっきり見ることができます。碑と説明板があります。
H寺町の「立像寺」には、金沢を離れる時、富田半左衛門に託した「右近灯籠」が残されています。
I「野田山」には、前田利家・利長などの前田一族の墓があり、その中に、内藤ジュリアによって導かれ、洗礼を受けた「豪姫」の墓もあります。右近とは、金沢で13年間いっしょでした。尚、尾崎神社近くの「黒門前緑地」の辺りが「豪姫住居遺址」で、ここで召されていきました。説明板もあります。
そして最後に、鳴和町(なるわまち)にある「殉愛キリスト教会」には「高山右近自筆書状」や「南坊石」ほか、貴重なものがいろいろありますし、右近研究家・山縣実牧師から話を聞かせていただきながら、「右近庵」でお茶を一服いただければ最高ですね。
Q. 千利休と高山右近との関係について教えて下さい。
A. 「利休極上一の弟子也」(「茶道仰聞書」)といわれていました。
利休には、茶湯を直伝したという七人の弟子がいました。「利休弟子衆七人衆」といわれ、のちには「利休七哲」と称された人達です。
寛文3年(1663年)夏に、宗左(利休-少庵-宗旦-宗左)によって著された「江岑夏書(こうしんなつがき・げがき)に初めて出てきます。
一番 かもう飛騨守殿(蒲生氏郷)
二番 高山右近、南坊ノ事
と七番まで記されているのですが、茶湯の上でこれといった話題もなかった氏郷が利休の一番弟子とされたのは、利休の賜死後、少庵を引き受け、その少庵によって千家が再興されたことも関係があると思われますので、右近が「利休極上一の弟子也」という「茶道仰聞書」の通りだったのかもしれません。
利休は右近より30歳年長。利休が手がけた茶室で唯一残っている「待庵」(京都・山崎)を建てる時、丸木を準備した右近に対する利休直筆の礼状が残されていますし、九州・博多で「伴天連追放令」が出された時、右近を説得するよう、秀吉の命を受けて出向いていきましたが、右近の心境を理解したのも利休でした。1588年、前田利家に招かれて加賀に向かう右近のことを心配して、蒲生氏郷宛に「南坊、昨日午刻に宮古(都)を立被申候」と一番に伝えています。「利休百会記」には、利休が亡くなる3ヶ月前の天正18年(1590年)12月27日朝、二人きりで(一亭一客)、利休が右近のために茶会を開いたことが記されています。
マニラに追放される時、右近は、恩師から贈られ使用してきた利休自作の羽箒(はぼうき)を大事な宝物として持っていったのでした。
Q.昭和39年、カトリック七尾教会司祭のカステラン神父が、志賀町の高山家の旧墓を発掘調査した所、右近の小指と、「高山ジュスト、父ダリオ、母マリア」と刻まれた青銅製の馬像が発見されたそうですが、此の現物は現在何処に有るのでしょうか。
A.カステラン神父がまとめられた「高山右近」や「石川のキリシタン」の中に、”マニラから縁族の一人がひそかに右近の遺骨の一部と遺品を持ち帰り、それを埋めて墓所としたと伝えられている高山家の墓を、了解を得てカステラン氏と仲島北海氏のふたりが発掘、小指の骨と青銅製の馬の像1個を得た”とあるのですが、当の仲島さんから、最近、「事実ではなかった」「カステラン神父は当時、日本語の読み書きも充分ではなかった」「出てきた骨らしきものを、高山右近の小指の骨であることにした」「馬の像は、後で古物商で買った」との証言がなされています。
当時(昭和39年7月14日)の北國新聞の記事にも「高山右近の墓見つかる?」と見出しをつけて記していますが、疑問形ですし、小指の骨や青銅の馬の像についてはひと言も触れていません。
現物が現在どこにあるかについて言えば、
・小指の骨については、見た人さえいません。
・馬の像(青銅製ではなく、鉄製だったようですが)は、カトリック金沢教会に保管されています。
Q.右近の墓の馬の像と小指の骨の件ですが、それが偽物であったという情報の出典を教えて下さい。
A.「キリシタン文化研究会会報111号」(1998年5月発行)に、同会会員の木越邦子さん(カトリック金沢教会事務局)が、「石川県でのキリシタン研究の成り立ちと現状−高山右近を中心として−」と題された小論文を発表されていて、カステラン神父の著された本の中の「高山右近の墓所」および「高山右近の子孫」について、検証されています。
Q.右近の遺骨が、フィリッピンで発見された(旧米軍兵舎の跡地内で)と新聞報道が二年前に有りましたが、其の后報道が有りません。何か情報が有れば教えて下さい。
A.2年前に新発見があったということはなく、おそらく以前のもの(1988年8月31日サンケイ新聞のスクープ)の再報道だったのではないでしょうか。
右近の遺骨のゆくえについて、現在わかっていることは以下のとおりです。
1 1615年2月3日マニラで63歳で召天。盛大な葬儀の後、右近の遺骸は、聖アンナ教会の主祭壇のかた
わらに葬られた。
2 1622年、地震で聖アンナ教会の天井が崩壊。遺骨はサン・ホセ学院の聖堂の石棺の中に納骨された。
3 1895年の大地震で建物が崩壊。その後アメリカの統治下となり、跡地に兵舎が建てられ、遺骨は
聖イグナチオ教会の納骨堂に移された。
4 日本軍との戦争で、アメリカ軍の爆撃を受けて教会は破壊。遺骨はちりぢりばらばら、だれのものか見分けが
つかない状態に。
5 戦後1945年、集められた87柱の遺骨がケソン市のノバリチェス女子修道院の2つの納骨堂に、「人々に知ら
れざりしも、神に知られし者」の墓として、57柱と30柱に分けて納められました。その中に2つの銀の骨壷があ
り、高山右近と内藤如安のものではないかと、有力視されています。
Q.高山右近さんの少年時代は、どのようなものだったのですか?(大阪府守口市・小学4年生)
A.高山右近さんは、今から450年前(1552年)、大阪府の豊能町高山というところで生まれました。20歳くらいまでの名前は「彦五郎」といいました。
「高山」という地名の通り、山また山の中といった感じで、彦五郎が生まれた高山城のあった辺りは、450mほどの高さの所です。
お父さんは高山飛騨守、お母さんはクリスチャンになってからの名前しか伝わっていませんが、マリヤといいました。
6人きょうだい(男3人、女3人)の長男でした。
高山には5歳の時までいましたから、今でいうと、小学校に入るまでの間を、高山ですごしたことになります。
小学生・中学生にあたる頃は、奈良県榛原町(はいばらちょう)にある沢城ですごしました。この辺りも、高山ほどの高さではありませんが、緑いっぱい、山や田畑が続く、静かで美しい地域です。
少年彦五郎は12歳の時、沢城に招かれてやってきた、ロレンソという人から神様の話を聞き、クリスチャン(当時の言い方ではキリシタン)になって、バプテスマ(洗礼)を受けました。
高山といい、沢といい、その場所に立ってみますと、高山右近さんはこのような恵まれた自然環境の中で、少年時代をすごしたんだなあ、と感動させられます。
時は戦国時代でした。彦五郎少年も、武士の子供として、剣や弓などの練習もし、棒切れをもって、山や野原を走り回っていたことでしょう。
又、大きくなってから、城造りや茶道、能、和歌などでも力を発揮していきますから、いろんな勉強も、少年時代にしっかりやっていったと思いますよ。