「神の国は誰のものか」 By Luke 1998.2.9

聖書:マルコ 10:13ー16

(1段目:新改訳 2段目:口語訳 3段目:新共同訳

さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。
イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。
イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。

イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
それを見てイエスは憤り、彼らに言われた、「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。
しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。

まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」
よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。
はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。
そして彼らを抱き、手をその上において祝福された。
そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

神の国とは

	まず今日のテーマである神の国について誤解のないようにしておきたいと思います。
	よく私たちは「天国」という言葉を使いますが、日本語聖書では「パラダイス」
	または「楽園」と書かれており、新約聖書には3回しか出てきません。
	パラダイスはクリスチャンが死んだ後、魂が世の終わりまで一時的に移される
	場所のことです。
	神の国ということば(あるいは天の御国)は新約聖書に100回くらい出て来ます。
	イエス・キリストのメッセージの中心は、この「神の国」に関することでした。

	神の国とは死んでから行くところではなく、神の支配の及ぶところであり、
	信仰を持った瞬間から私たちはその神の国の国民となるのです。神の国は目に見え
	ませんが、私たちの中ですでに始まっており、キリストの再臨によって完成されるも
	のです。
	パラダイス(天国)とは神が新しい天と地を作り、神の国が完成するまでの間、
	死んだものの魂が一時的に休む場所です。

	パリサイ人がイエスに「神の国はいつくるのか」とだずねたとき、イエスは
	「神の国はあなたがたのただ中にある。」(ルカ17:21)と言われました。
	また、マタイ12:28では「神の国はもう来ている」と言われています。
	神の国は、神を信じるものたちの中に、すでに始まっているのです!

	キリスト教における救いとは、神の国に入ることだと言い換えることができます。
	イエスの宣教のスタートは「神の国は近くなった」(マルコ1:15)という
	言葉で始まりました。この「近くなった」という意味は時間的に近いということで
	はありません。「もうすぐ来る」ということではありません。
	手の届くところまで来た、という意味です。今すぐにでも入ることができるのです。
	イエスが伝えた神の国の福音は、死んでから天国いけるかどうかではなく、(もち
	ろんそれも含まれてはいますが)まず、今、私たちが神の国に入るように招かれて
	いるということなのです。
	
	
神の国は誰のものか

	 さて今日のみことばを見てみましょう。

	 人々がイエスに祝福して頂きたいと願って子どもたちを連れてやってきました。
	ルカによる福音書では「幼子」(新共同訳では「乳飲み子」)と書いてあります。
	すなわち赤ちゃんから幼児にかけての小さい子供達でした。
	弟子達はそれを見て、親たちをしかりました。つまり、こどもたちが邪魔だったの
	です。
	「うるさい」「落ちついてイエスさまの話が聞けない」
	「こどもにはわからない」
	「ここはこどもの来る所ではない!」
	そんな風に弟子達は考えたのでしょう。
	
	しかしイエスは「憤って」すなわち「腹を立てて」逆に弟子達をしかりました。
	イエスが憤るということは意外に思う方もいるでしょう。しかし怒るべきときには
	怒る方です。日本語訳では憤っている感じが伝わらない文章ですが、「来させなさい」
	という言葉が原語では最初に来ています。そして「神の国はこのような者たちのものだ」
	と言われました。
	彼らには「神の国はこどもたちのもの」という考えは全くありませんでした。
	
	「わたしにところに来させなさい。」という言葉はまた、親として考えさせら
	れる個所でもあります。
	クリスチャンとしての見本をこどもに見せているだろうか、私も親として恥ずかしい
	限りです。しかし、最も大切なのは自分を見せることではなく、イエスにところに連
	れていくことではないでしょうか。イエスさまとはこんなにすばらしいお方なのだ、
	この方に従いなさい、と教えることができれば十分です。それを子供たちに示せるく
	らいに、私たち自身が日々、イエスさまのすばらしさを体験させて頂きたいものです。
	
	続いてイエスは言われました。
	
	この「まことに」とは原文では「アーメン」というへブル語です。。
	私たちが祈りの最後にややもすると習慣的に言ってしまうこのことばの意味は重要です。
	「ほんとう神様、そのとうりです!」という意味です。
	ここでは、絶対確かなことを言う、ということです。
	イエスは大切なことを教えるとき必ず、「まことに、まことに」すなわち「アーメン
	アーメン」と言われました。
	この箇所もとても大切なことを教えているということです。
	イエスは「子どものように神の国を受け入れよ。」そうでなければ「決して」
	入れない、と言います。
	
	それでは「こどものように神の国を受け入れる」とはどうゆうことでしょうか。
	
	ユダヤの子ども観では、純粋、清い、汚れがない、天使ようだという考えは無く、
	無価値な者、不完全な者と考えていました。
	「こどもは生まれたときには罪無く、汚れなく」というのは現代のヒューマニズム
	の考えです。子どもを育てた経験のある方は、子どもが生まれつき罪あるものだと言う
	ことは経験的にご存じでしょう。
	しかし、この世の教育論は性善説に基づいていることが多いのも事実です。
	
	しかし聖書はそのようには教えていません。だから「こどものように」とは、純粋にな
	るとか、清くなるとかでなく、自分では何もすることができず、ただ親に頼るしかない
	ように、神に頼るということです。
	だから「受け入れよ」と言われているのです。神から差し出されているものを素直に
	受け取るのです
	迷子になった子どもが、親を求めて泣き叫ぶように神を求める事です。
	神の顔が見えなくなったとき、神がわからなくなったとき、あなたは必死で神
	を求めたことがあるでしょうか。
	
	有名な山上の垂訓でもイエス様は言われました。
	
	「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」
	
	これは全く同じことを言っています。自分は不完全で神の前に誇るべき何も持って
	いない、貧しい者だと自覚する人が神の国にふさわしいのです。
	こどもこそは、何も持っていない貧しい者ではないでしょうか。
	
	あなたは、ご自分が「豊か」だと思われますか。それとも「貧しい」と思いますか。
	

 <祈り>

  天の父なる神様。
    あなたが、すべての人々を神の国に招いていて下さる恵みを感謝します。
    ただ、罪深き私どもはその資格の無いものです。どうぞ、真心から悔い改めて
    子供のように、ただあなたの恵みと愛により頼み、信頼していきことができます
    ように。

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