マルコによる福音書から

                      No.2「ヨハネとイエス」 1998.4.29  By Kiyoshi

聖書: マルコによる福音書1:6

      「ヨハネは、ラクダの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。」


 聖書には、イエスキリストのために道を備えるものとして、ヨハネが出現したと書いてあります。
このヨハネという人物は、イエスがどんな人であるかを、ある意味象徴的に表していたのです。
 まず、彼はらくだの毛で追った着物を着て、皮の帯をまとっていたとあります。これは何を表して
いるのでしょうか。これは、罪が取り除かれるのには、命、血が流されなければならないことを意味
しているのです。旧約時代、神様は、罪を犯した人の代わりに、動物の血が流されることによって罪
が赦されることを決められました。ですから、罪を犯した人は、羊を祭司の所に連れていき、そこで
羊の頭に自分の手を置きました。これは自分の代わりに羊が血を流すことを意味していました。やが
て祭司がその羊の首をばさっと切ります。その血によってその人の罪が赦されたのです。しかし新約
時代(現代もそうです)は少し変わりました。イエスキリストが神の前にこの羊となってくださった
のです。もう動物をつれてくる必要はなくなりました。

 イエスはただ罪を赦してくださるだけではありません。聖書には、ヨハネはいなごを食べていたと
あります。いなごと聞いて皆さんは何を連想するでしょうか。日本にもいなごを佃煮などにして食べ
る習慣があります。聖書が書かれた中東では、いなごは、日本でいうとちょうど蛍と同じなのです。
暗闇を照らしてくれる光を意味するのです。聖書はおもしろい日にちの数え方をします。夜があり朝
があって、第一日と数えるのです。ふつうは反対ではないでしょうか。闇は苦難、病、貧困などを表
すのに対し、光は解決、健康、幸福を連想させます。聖書はいったい何を伝えようとしているのでし
ょう。それは、神様はあなたの生活に夜がきたら朝を創る、夜がきたら朝を創る、夜がきたら朝を創
る・・・神様はそういう方であることを私たちに伝えようとしているのです。もしあなたが今闇の中
にいるなら、キリストを信じることによって、神のこの力が働き、神の無から有を呼び出す力によっ
て、朝を創ってくれるのです。聖書は、神は光であるといいます。どんなにくらい闇でも、光がくれ
ば闇は押し出されてしまいます。聖書は闇は光に勝てないとはっきり言いきっているのです。

 さらに聖書は、ヨハネは蜂蜜を食べていたと書いています。蜂蜜とは何でしょうか。皆さんはみつ
を食べたときどんなお気持ちになるでしょうか。聖書の全体を見ますと、みつは満足を表しているこ
とがわかります。すなわち、キリストは私たちを満足させてくださる方だということです。

 まず第一に、キリストは、聖書を通して与える知恵によって私たちを満足させてくださいます。聖
書には知恵という言葉が2つ出てきます。1つはただ知っているというだけの知識という意味で、も
う一つは、実際に役に立つ知識という意味で使われています。そしてキリストが与える知恵という文
脈の時は決まって後者の言葉が使われているのです。聖書は単なる神話ではありません。私たちにこ
の地上でどう過ごせば満足が得られるかを教えてくれる本なのです。 

 第二に、キリストは満足を見いだせる仕事を与えて私たちを満足させてくださいます。聖書は、人
間は一人一人が神によって創られた、神の作品であり、神はその一人一人を目的を持って創ったと書
いています。すなわち人間は生まれたときからすでに何らかの使命を持って生まれてきたということ
です。そしてキリストはあなたがこの使命を全うして生涯を過ごせるように、あなたの人生を導いて
くれるのです。あなたが描いている夢、子供の頃から持っていた夢、それはもしかしたら、神様から
の使命であるかもしれません。神を知らぬ時、人はこの夢を実現させようと必死に自力でがんばりま
す。しかしキリストを信じると、もう自力でがんばる必要がなくなるのです。結果だけを見れば、そ
れは偶然がただ度重なっているだけに見えるかもしれません。しかし実際はキリストがあなたの夢を
実現したのです。もう自力でがんばる必要はありません。キリストが全部やってくださるからです。

 もしあなたに子供がいらっしゃるのなら、何とか子供の願いをかなえてあげたいとお思いになるで
しょう。イエスを信じると人は神様の子供になると聖書が約束しています。すなわち、ちょうどあな
たが子供の願いをかなえてあげようとするのと同じように、神様があなたの願いをかなえてくださる
世界が広がるのです。

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