「いのちの御霊の法則(1)」 By Luke


【序論 法則、原理】

私たちは普段特に意識していないかもしれませんが、必ずなにかの法則に従って
あるいは支配されて生きています。たとえば物を持ち上げて離せば落ちる、これは
万有引力の法則です。形あるものは壊れる。これはエントロピーの法則と言います。
この法則あるいは原理というものは、私たちの行動を規制します。それに逆らうこ
とはできません。しかしそれによって生かされているとも言えます。引力があるから
地球には空気があります。引力があるから私たちは宇宙にほうり出されることも
ありません。

魂の領域にも法則があります。いのちの御霊の法則(原理)、罪と死の法則
です。これを新約聖書のローマ人への手紙から見ていきましょう。

   8:2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死
   の原理から、あなたを解放したからです。

原理と訳されてますが、口語訳、新共同訳では法則と訳しています。
文語訳では「法」となっています。
意味は同じです。私たちの生き方を支配する原理です。
すべての人は生まれつき罪と死の法則に支配されています。
しかしイエスキリストにあるいのちの御霊の法則が、罪と死の法則から解放する
と書いてあります。

今日はいのちの御霊の原理がどのように私たちを解放してくれるかを見ていきます。
第一に、罪のさばきからの解放
第二に、罪の力からの解放

【罪のさばきからの解放】

★すべての人は罪人

    3:10-12
    それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。
    悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
    すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。
    ひとりもいない。」
 
神から見ればすべての人が死に値する罪人なのです。  
罪あるものは死ぬ、これが神が定めた原理です。法則です。例外はありません。
死とはからだの死だけを意味しません。神のさばきを受けるという魂の死を意味
します。このように私たち人間は罪と死の原理(法則)の中に生きています。
そして私たちは自分の力、努力でこの法則から逃げ出すことはできないのです。

★罪の奴隷

    7:21-25 
    そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っ
    ているという原理を見いだすのです。
    すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、
    私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦い
    をいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだす
    のです。
    私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い
    出してくれるのでしょうか。
    私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。

罪の律法(=法則、原理と同じ言葉)が私たちのうちで罪を犯させるのです。
自分の力では、この法則に逆らうことはできないのです。これが人間の真実な姿です。

この手紙の著者パウロは「誰が・・・」と言っています。
しかし、これは決して絶望的な叫びではありません。
救って下さるお方がいる、その方はイエスキリスト以外にはいない!と感謝の
叫びをあげているのです。

★イエスキリストによる救い

   8:1こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められること
   は決してありません。

「イエスキリストにあるもの」は、「決して」罪に定められない!!
と書かれています。罪に定められるとは有罪判決を受け、さばかれることです。
つまりイエスキリストにあるものは「無罪」だと宣言されています。
なんと不公平でしょうか。すべての人は罪を犯していると先ほど見ました。
でもクリスチャンは「無罪」。そんなにクリスチャンは立派なのでしょうか。
いいえ。「イエスキリストにあるもの」イエスにしっかりと結ばれているもの、
だからです。

   8:3 肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はして
   くださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお
   遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。
   イエスは罪深い肉と同じようなかたちで、すなわち人間の姿を取られたとういこと。
   そして、肉において罪を処罰された、とは、わたしたちの代わりに罪に定められて
   十字架の上でさばきを受けて下さったのです。

★いのちの御霊

   6:6,7 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが
   滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たち
   は知っています。
   死んでしまった者は、罪から解放されているのです。

また、私たちも十字架で死んだものとみなされています。死んだものには罪のさばき
はもう効力がありません。罪と死の原理は、一度死んだものにはもう効力がありませ
ん。

   6:8-11 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生き
   ることにもなる、と信じます。
   キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリス
   トを支配しないことを、私たちは知っています。
   なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリ
   ストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
   このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキ
   リスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。

さらに私たちはキリストと共によみがえった者です。これは別の箇所で「新しく
生まれる」「御霊によって生まれる」とも言われています。
ですからいのちの御霊と呼ばれるのです。

こうして、イエスキリストの十字架で罪が処罰されたことを信仰によって受け入れた
ものは、罪に対して死んだものとなり、御霊が与えられて新しいいのちに生まれ変わ
る、これが「いのちの御霊の法則」による解放です。

ある法則から解放されるには別の法則が必要です。
風船は、息を入れただけでは引力の法則に支配されています。
しかし、空気より軽いガスを入れた風船は、別の法則に支配され空に飛んで
いきます。引力の法則から解放されます。同じ風船だが、中身が違うのです。
いのちの霊を吹き込まれた人間は、罪と死の原理(法則)から、解放され
いのちの御霊の法則に支配されます。決して以前の法則が無効になった訳ではありません。
より強力な法則に支配されただけです。

つづく。(次回は「罪の力からの解放」です。)

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